元サッカー日本代表・坂井達弥が、なぜタイでドリアン作り!? ...の画像はこちら >>

2022年にタイのクラブと契約満了となった後に新チームが決まらず、ドリアン作りを手がけることを決意した坂井

元サッカー日本代表、タイでドリアン栽培農家見習い――。これは、アギーレジャパンでの代表キャップ「1」を持つ、坂井達弥(33歳)の現在の肩書だ。

「今は日々ドリアン農家で修業中の身ですね。夢は大きく〝ドリアン王〟(笑)。農業は甘くないし、生活も大変です。でも、サッカー選手として過ごした時間より、今のほうが充実しているかもしれません」

サッカーのようにプロ選手が多い競技は、引退後の人生で苦労するケースも散見される。そんな中で一念発起し、元日本代表選手が、ドリアンのためにタイに移住。異色のキャリアを歩む、坂井の軌跡を追った。

福岡県で生まれ育った坂井は、アビスパ福岡U-12に入団。その後、名門・東福岡高校で主将を務めるも、プロからのオファーはなかった。悔しさをバネに鹿屋体育大学に進学すると、左利きの大型CBとして飛躍を遂げる。

4年時の2012年にはサガン鳥栖の特別指定選手となり、ナビスコカップ第1戦でデビューを果たした。坂井が述懐する。

「高校時代は『やらされている』という感覚でサッカーをしていた面もあった。

それが、大学では自由な環境でできるようになり、サッカーが本当の意味で楽しくなったんです。プロと練習試合をする機会もあり、『プロを抑えるためにはどうしたらいいのか』と具体的なイメージを持てたことも大きかったですね」

元サッカー日本代表・坂井達弥が、なぜタイでドリアン作り!? 妻「これは本気だ」
サガン鳥栖時代の2014年に日本代表に選出され、1試合に出場。しかし、その後はJリーグでも出場機会が減っていった

サガン鳥栖時代の2014年に日本代表に選出され、1試合に出場。しかし、その後はJリーグでも出場機会が減っていった

翌シーズンに鳥栖への加入が内定すると、2年目に大きな転機を迎える。クラブでもレギュラーをつかんでいたわけでなかったが、日本代表に大抜擢されたのだ。

14年9月に行なわれたキリンチャレンジカップのウルグアイ戦で先発起用されると、当時世界屈指のストライカーのエディンソン・カバーニと対峙した。坂井のミスから失点するも、『十分やれる』という手応えも感じた。

周囲もこれから絶頂期を迎えることを期待していたが......ここからキャリアは下降線をたどる。

翌15年にレンタル移籍した松本山雅FCでは3試合の出場にとどまり、鳥栖に戻ってからの2年間はリーグ出場ゼロ。その後、J2で3チームを渡り歩くも満足な出場機会は得られなかった。ケガに泣いたこともあったが、〝元代表選手〟という期待も重荷となり、適応に苦しんだ。

「どのチームでも、『元日本代表だから』と期待度の高さを感じましたね。もともと器用なタイプではないので、自分を理解してもらうのにも時間が必要で、チームが変わるたびにそれがツラかった。

ほかの人が当たり前にできることが時間をかけないとできなくて、悩んでしまいました。周囲からの見られ方と、自分の意識とのギャップがなかなか埋められなかったんです」

元サッカー日本代表・坂井達弥が、なぜタイでドリアン作り!? 妻「これは本気だ」
タイのクラブに移籍後も苦しい時期が続いた坂井(右から2人目)。だが、そこで食べたドリアンの強い甘みに衝撃を受けた

タイのクラブに移籍後も苦しい時期が続いた坂井(右から2人目)。だが、そこで食べたドリアンの強い甘みに衝撃を受けた

19年にモンテディオ山形を退団する際はJチームからのオファーはなく、タイのクラブから打診があった。以降の3シーズンはタイリーグでプレーするが、そこでも思い描いていたような結果は残せず。

22年はチーム探しに奔走するも、納得できる条件は得られなかった。日本に戻った後、選手として最後に届いたオファーは月収12万円程度と格安だったという。

帰国後は、教員免許を生かして「教師になるべき」と友人たちからアドバイスを受けた。それでも南国の気候や人々の優しさが坂井の心に染み、タイでの生活を望むようになっていた。最大の理由は、「初めて食べて以来、その魅力に取りつかれた」というドリアンだった。

元サッカー日本代表・坂井達弥が、なぜタイでドリアン作り!? 妻「これは本気だ」
2018年に結婚した夏美さん(右)もタイに移住。昨年4月にウエディング事業がメインの会社をスタートさせた

2018年に結婚した夏美さん(右)もタイに移住。昨年4月にウエディング事業がメインの会社をスタートさせた

元タレントで、現在タイでウエディング事業がメインの会社を経営する妻の夏美さん(31歳)は、当時の坂井の様子をこう回顧する。

「22年はチームがなかなか決まらなくて本当に苦しい時間でした。

それでも達ちゃんは、ドリアンのことがずっと頭から離れなかった。

現地でのコネクションは皆無で、本当にゼロからのスタート。でも、ずっと『ドリアン、ドリアン』と言っていて、これは本気だな、と。今では『仮にどんなオファーがあっても、ドリアンを選ぶ』と言っています(笑)」

ドリアン作りはおろか、農業もほぼ素人。しかし坂井の熱は、異国の地で伝播していく。夏美さんが続ける。

「あれだけ試合に出られなかったのに、チームから『スタッフとして残ってほしい』という声をいただいたことがあるんですが、それは達ちゃんの人柄だと思うんです。それはタイでも同じでした。

ドリアン作りを応援してくれる社長さんも現れ、弟子をとらない生産者さんがノウハウを教えてくれたり。タイの財閥の方や政治家など、普通は会えない偉い方からもなぜか気に入られて、お仕事につながったり......。それは経歴ではなく、不器用だけど飾らない人間性が伝わったからだと感じるんです」

一般的にドリアンは、植栽から収穫まで5年ほどかかる。低温に弱いこともあって日本では育ちにくく、ノウハウも現地で学ぶしかない。朝は早く、一日中高温の中での立ち仕事で、夜は泥のように眠るほどの疲労が伴う。「果物の王様」とも呼ばれる嗜好品を極める道は、果てしなく険しくもあるのだ。

しかし坂井にとっては、その疲労感や道程も「心地よいもの」だという。

「正直、体力的には毎日めちゃくちゃキツいです。ただ、自分が納得しているなら、どんなに大変なことでも苦にならないので、本当に楽しく過ごせています。

ドリアンは日本人にとって〝食わず嫌い〟な食べ物であるとも感じていて。僕が体験した感動をできるだけ広く伝えたい、というのが今の原動力になっています」

現役時代は元日本代表の肩書に苦しんだこともある。だが、海外で暮らす今は強みと感じられるようにもなった。

「元日本代表と言うと、タイで仕事するときも興味を持ってくれます。そこからどうなるかは自分次第。タイ語も必死に勉強して、できるだけドリアンについての〝リアルな声〟を学びたいです」

タイの地で、オーガニックドリアン作りに励む坂井の表情に、悲壮感はまったくない。むしろ第二の人生で、その輝きが増している稀有な存在のようにも感じた。

取材・文/栗田シメイ 写真/坂井達弥氏提供 アフロ