漫画家の猿渡哲也氏と歌手の細川たかし氏
漢を描き続ける猿渡哲也が"永遠の兄貴たち"を直撃!! ひとたび、その圧倒的な声音とこぶしを聴けば、昭和のネオンと懐かしき故郷の風景が瞼に浮かぶ。今回のゲストは日本歌謡界の巨星・細川たかし。
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■細川流カラオケ必勝法がこれだ!
猿渡 2年ほど前にYouTubeで細川さんの『望郷じょんから』(1985年発売)(※1)を見て聴いてから、すっかりハマってしまいまして。「帰ろかな~帰りたい~」と今でも毎晩、仕事終わりに口ずさむぐらいなんです。
(※1)作詞/里村龍一 作曲/浜 圭介
細川 いやぁ。それはうれしいですね。この歌は僕と同じ北海道出身の里村龍一という作詞家が書いたものなんです。彼は〝北海道の熊〟とあだ名がつくぐらい、いかつくて、酒豪で。
でも、その見た目とは裏腹に故郷を後にした男の心情を細やかに表現しているんですよ。残念ながら、2021年に72歳で亡くなってしまいましたが、いい曲を残してくれましたね。
猿渡 歌詞が心にぐっと刺さりますよね。そんな話を僕の師匠である平松伸二さん(『ドーベルマン刑事』や『ブラック・エンジェルズ』の作者)に話したら、「おまえも細川たかしさんが好きなのか。俺もなんだよ」と。
で、去年、一緒にコンサートへ行きました。『望郷じょんから』を聴いた瞬間、涙が出ましたね。
細川 ありがたいですね。
猿渡 細川さんの歌声を実際にコンサートで聴いてみて、ただただ、圧倒されました。それこそサビの「帰ろかな、帰りたい」を通常よりも多く繰り返していましたよね。めっちゃカッコ良かったです。
細川 4回繰り返しているんですよ。しつこいぐらい(笑)。テレビではできないんですよね、尺の制限があるから。でも、実演(コンサート)だったらできる。
今はカラオケの音響装置も飛躍的に向上して、歌好きのお客さんが多い。冷やかしではなくて真剣に歌を聴きに来てくれるわけです。だから、僕としても絶対に手を抜きたくない。
猿渡 あれだけの声量、声域を出せる秘訣はなんでしょう。
細川 まず、水はたくさん飲みますね。その分、トイレも近いんだけど(笑)。それと、ほぼお湯っていうぐらいの薄めのコーヒーを少し飲む。これを交互に繰り返すんです。
猿渡 ああ、サウナでいう温冷交代浴みたいな感じですか。
細川 そうです。温めて、冷やしてっていうね。だから、お酒を飲みながら歌うとね、けっこう声は出ますよ。
猿渡 細川流カラオケ必勝法ですね! 勉強になりました。
■75年、〝私バカよね〟で大旋風を起こす
猿渡 細川さんは北海道の真狩村のご出身だそうで。歌というか音楽に目覚めたのはいつ頃でしたか?
細川 中学時代ですね。その当時はザ・ベンチャーズ(ロックの始祖的バンド)に憧れて、ギターやベースができる同級生たちとバンドを組んで、僕はドラムをやってました。それと、井沢八郎さんの『北海の満月』(65年)が大好きで、よく歌ってましたね。
猿渡 ふと思ったのですが、細川さんの音楽の才能は誰からの影響なんですかね?
細川 うーん。オヤジは声は良かったけど、歌は全然でしたしね。思い当たるとしたら、もともと石川県能登半島出身で屯田兵としてやって来た僕のじいさんが開拓民となって、真狩村に定住するわけですが、畑仕事をろくにやらず道楽者で(笑)。
村落の者が集まって酒宴になると、得意の尺八を吹いて盛り上げていたそうです。僕はじいさん似だと言われてきましたね。
猿渡 歌手になることを決断したいきさつというのは?
細川 中2のときですね。実家はジャガイモを主体に、あとは家族が食うだけの田んぼしかない農家だったんですけど、僕は小さい頃農業が嫌で嫌で(笑)。
農繁期になると、学校が1ヵ月間秋休みになるんですが、喜ぶどころか、しっかり手伝わなければならない。イモ掘り、稲刈り、実に過酷でした。
で、10歳上の兄貴はすでに小樽の運送会社に就職。あとは姉3人なので、後継ぎは末っ子の僕ということになり、今後の話になったとき、僕は歌手になるんだと。それで、実家は農業をやめて、僕は中学卒業後、札幌に出るんです。
猿渡 中卒で札幌に出て、苦労も多かったでしょう?
細川 昼は整備工、夜はすすきののキャバレーでボーイをやってました。その後、整備工はやめて、ヘルスセンター(現在でいう健康ランド)で働き、ボーイとかけ持ちでした。やがて歌を歌わせてもらう機会ができて、昼夜問わず、ずっと歌い続けていました。ずいぶん鍛えられましたね。
猿渡 その後、だんだんと存在が知られるようになって、ナイトクラブをいくつもかけ持ちするほどの売れっ子歌手になったのは......。
細川 20歳前後ですね。すすきののクラブ歌手としては十分生活できるまでになりました。
猿渡 それで〝すすきのの森進一〟として知れ渡ったわけですか。デビューへのきっかけというのは?
細川 僕が歌っているのをカセットテープに録った人が東京に持ち帰って、当時のバーニングプロダクションの社長、周防郁雄さんに聴かせたんです。
で、即座に周防さんが「航空券を手配して、東京に連れてきてくれ。地方の人間だから、ちゃんと飯代も渡さないと信用してくれないぞ」と。きちんと往復の航空券とその頃で3万、4万円の飯代を添えて渡してくれましたよ。
東京で周防さんに会って、そこからはトントン拍子でレコーディングまで進んで。10曲ぐらい録ったのかな。その中にデビュー曲『心のこり』(75年)(※2)があったんです。
(※2)作詞/なかにし礼 作曲/中村泰士 編曲/あかのたちお
猿渡 僕は兵庫の姫路で育ったんですが、17歳ぐらいのときにレコード店でバイトしてて。めっちゃ覚えてますよ。細川さんのトレンチコート姿のジャケ写とか。その年の各新人賞総なめで、大ヒットしましたよね。
細川 「私バカよね、おバカさんよね」っていうフレーズも耳に残りやすかったんでしょうね。その頃、街で子供と出くわすと、「あ、おバカさんが歩いている!」と言われるぐらいでしたから(笑)。
猿渡 そこまで大ブレイクするとは想像していなかったですか?
細川 はい。周防さんには、「1年やって売れなかったら、申し訳ないけど、札幌に帰ります」と。やっぱり生活があるのでね。
あともうひとつ、周防さんにはテレビに出してほしいとお願いして。売れる売れないじゃなくて、とにかくテレビに出れば、北海道にいる親たちも喜んでくれるだろうと。その思いが強かったですね。
■ドリフコントで大ケガ。『欽どこ』で大逆転
猿渡 『心のこり』もそうですけど、細川さんの歌はとにかく耳に残りやすい、キャッチーですよね。日本レコード大賞を受賞した『北酒場』(82年)もそうです。
特に思い出すのは、萩本欽一さんのテレビ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!』のワンコーナーで、細川さんが急に出てきて、急に歌うという場面です(笑)。
細川 大将(萩本欽一)には感謝しかないですね。僕が『8時だョ!全員集合』の坂を駆け上がる名物企画でアキレス腱を断裂してしまって。そこから60日ほど入院とリハビリ生活を送ることになってしまったんです。81年の3月ぐらいでしたか。
猿渡 それは災難でしたね。
細川 ええ。それで、その年の秋に民謡の先生っていう設定で『欽どこ』にゲストで呼んでもらったんです。収録後、大将に「やっぱりテレビはいいですね。半年ぶりに復帰して、しみじみ思いました」と。
そしたら、来週も出たらいいじゃないと。「でも、本来は歌手なんだから、最近録った歌とかないの?」と問われて、いくつか聴いてもらった中に『北酒場』があったんです。大将も、「これ、ノリがいいね。よし、今日収録でこの曲やろう!」と。
猿渡 さすが、欽ちゃん。フットワークが軽いですね。
細川 そうなんです。で、まだできたばっかりの曲ですし、僕も歌い出しの部分しか覚えてなくて。カンペを出すからそこは大丈夫ってことで事前練習を終えて、いざ本番を迎えたら、スタジオ内の照明が落ちて、僕にスポットライトがしっかり当たる演出だったんです。カンペはまったく見えない(笑)。もう焦っちゃって。
猿渡 それはヤバいですね(笑)。
細川 でもね、大将のとっさの機転がすごかった。そのハプニングを「はい、今日はここまで! 続きはまた来週~」って止めて。そこからひと月かけてワンコーラスを徐々に歌っていくという企画に変わったんです。
猿渡 〝細切れ〟にして、視聴者を歌に引き込ませたわけですか。すごい発想だなぁ。で、さらに翌年は『矢切の渡し』(83年)がこれまた大ヒットして。レコ大2連覇を達成しましたよね。
矢切の渡しってどんなものなのか気になったので、当時乗りに行きましたが、実際はたたずまいが割とこぢんまりとしているんですよね(笑)。
細川 川幅は約150mぐらいですからね。なので、船頭さんがただ横切るんじゃなくてVの字みたいに蛇行して、対岸に客を運ぶという。
リリースが2月だったんですが、3ヵ月後のGWに万単位の人が押し寄せたって聞きました。『ザ・ベストテン』の中継で何度か乗りながら歌いましたね。思い出深い一曲です。
■演歌・冬の時代を乗り越える秘策
猿渡 細川さんのコンサートで印象的だったのは、お弟子さんにもしっかり出番をつくり、宣伝の場を提供していることでした。彩青さんでしたよね。
細川 今は演歌界の若手が表に出られる機会というのがなかなかないんですよ。なんせテレビでも歌番組がほとんどないですからね。彩青は22歳ですが、歌が好きで弟子入りしてきたわけですし、できるだけ若い世代にもチャンスを与えたいんです。
猿渡 確かに昭和の頃はテレビの歌番組はたくさんありましたが、今は全然ですよね。作詞家や作曲家については、現状はどうなんでしょうか?
細川 まず絶対数が少ない。多くの作詞家や作曲家の先生方が鬼籍に入られましたしね。ただでさえ少ない作詞家、作曲家のところに依頼が集中するわけですから、いっぱいいっぱいになっちゃう。
なので、例えば、桑田佳祐君とか藤井フミヤ君に演歌の作詞作曲を頼んでみると、面白いものができるんじゃないかなって思うときもあります。
猿渡 そういった状況でも細川さんは『男船』(24年)ではユニークなMVを作ったり、SNSで積極的に発信したり、フレキシブルに取り組みをされていますよね。
細川 今の時代はそういう柔軟性も大事なんじゃないかと。でも、やっぱり猿渡さんが聴いて泣けるような、しっかりした演歌を作りたいし、歌いたいです。ふるさとだったり、親を思う、酒を飲んだときにしんみりと聴き入りたくなるような歌をね。
猿渡 細川さんは大御所なのに現状維持どころか、全然ハングリーなんですね。
細川 今ね、鳥羽一郎の長男である木村竜蔵に曲を作らせているんですよ。彼は30代後半で、作詞作曲ができるものですから。細川たかしも歌えないぐらいの音域の幅の広さがあって、父親のデビュー曲『兄弟船』(82年)を超えるような一曲を生み出せって。
猿渡 若い才能を引っ張ってきて、伝統と革新が交じり合った曲を作るというわけですか。細川さんには元気、やる気をいただきました!
●細川たかし
昭和25年(1950年)生まれ、北海道出身。75年、『心のこり』でデビュー。第17回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。82年の『北酒場』、83年の『矢切の渡し』で日本レコード大賞で大賞2連覇。21年に細川一門を立ち上げ、後進の育成にも注力している。公式X【@takashihosokee】、細川一門公式Instagram【@hosokawaichimon】。細川たかし公式YouTubeチャンネルも好評配信中!
●猿渡哲也(さるわたり・てつや)
昭和33年(1958年)生まれ、福岡県出身。『海の戦士』(週刊少年ジャンプ)でデビュー。格闘漫画『高校鉄拳伝タフ』『TOUGH』『TOUGH 龍を継ぐ男』は累計1000万部超を記録している
撮影/橋本雅司 構成・文/高橋史門