8年ぶりの「和製横綱」となった大の里
今年5月、大相撲夏場所で2場所連続4回目の優勝を果たし、横綱に昇進した大の里。14日から始まる秋場所を控えた横綱に、前場所の反省と今場所優勝への意気込みを聞いた。
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■「唯一無二の横綱を目指す」
稀勢(きせ)の里(現・二所ノ関親方)以来、8年ぶりの「和製横綱」として土俵に上がった7月の大相撲名古屋場所は11勝4敗。初土俵から史上最速の13場所で横綱に昇進した大の里だが、初めてと言える苦杯をなめた。
その名古屋場所から1週間後。8月3日の「大阪・関西万博場所」を皮切りに、大の里は約1ヵ月にわたる夏巡業に出発した。
東北、北海道、中学と高校時代を過ごした新潟、生まれ故郷の石川、所属する二所ノ関部屋の隣町・茨城県牛久(うしく)市などを経て、9月1日、秋場所の番付発表を迎えた大の里は、「いやぁ、長かったですね......。でも、『縁』のある土地に行くことができて良かった」と、笑顔で夏巡業を振り返った。

5月の夏場所で4度目の優勝を果たした大の里は、場所後に第75代横綱に昇進。昇進伝達式では、「唯一無二の横綱を目指します」と、大関昇進時と同様、座右の銘である「唯一無二」の言葉を入れ込んだ。
その後は綱打ち、明治神宮での奉納横綱土俵入り披露など、さまざまなイベントが続き、1日の休みもないまま名古屋入り。
60年ぶりに会場が移転したIGアリーナでの名古屋場所初日は、少し緊張したような面持ちで横綱土俵入りをこなした。
ファンの期待は、第74代横綱・豊昇龍と共に築く「大豊(たいほう)時代」。ところが、豊昇龍が足の負傷で5日目から休場したため、新横綱・大の里はいきなり「ひとり横綱」として重責を担うことになってしまった。
二所ノ関一門の先輩で「恩人」でもある髙安(たかやす)を太刀持ちに、一門の隆(たか)の勝(しょう)を露払いに従えた土俵入りは、日々安定感が増していったものの、4日目に平幕・王鵬(おうほう)に初黒星を喫すると、8日目、10日目も金星を献上。優勝争いから一歩後退してしまう。

連日満員御礼の東北巡業で、通路に押し寄せるファンひとりひとりにサインをする大の里。横綱の人気ぶりに、場内整理の人も大変そう
そして、13日目には2敗で優勝戦線のトップを走る平幕・琴勝峰(ことしょうほう)戦に敗北を喫した大の里。激動の新横綱としての場所を振り返った。
「何を言っても言い訳になりますが、この4敗目は精神的なダメージがきつかった。『オレ、いったい何をやってるんだろう......』って、落ち込みましたね。
優勝争いに絡めなかったのは横綱として大きな反省点ですが、14日目(関脇・若隆景[わかたかかげ]戦)、千秋楽(大関・琴櫻[ことざくら]戦)は腹をくくって相撲を取って、勝てたことで、ちょっとホッとしました」
■少年時代は「相撲嫌い」
大の里が生まれ育ったのは、元横綱・輪島、元大関・出島、十両・遠藤らを生んだ「相撲どころ」の石川県。
大の里こと中村泰輝(だいき)少年は、子供の頃から野球が好きで、「小学生になったら野球をやりたい」という夢を持っていた。
「正直、実家は裕福なほうじゃなかったんですよ。野球はミットとかバットなんかの道具に費用がかかるから、家族に迷惑をかけるんじゃないかという思いが子供ながらにあって......。父親(知幸さん)が高校、社会人相撲をやっていたこともあって、『相撲をやってみないか?』と勧められて、相撲の道を選んだんです」
生まれたときから大きく(4036g)、小学生のときも縦横共にクラスメイトよりひと回り大きかった泰輝少年は、相撲の世界で徐々に力を発揮するようになった。ただ、相撲を「見る」のは好きだが、「取る」こと、特に稽古は好きなほうではなかった。
そうした泰輝少年の「本心」を知っていた父は、積極的に息子に稽古をつけて、マンツーマンでトレーニングなどもこなした。

「支度部屋では撮影できないので、出た所でやりましょう」と優しい対応をしてくれた大の里
相撲嫌いの泰輝少年が「もっと強くなりたい!」と思ったのは、石川県出身の相撲の先輩が、中学から隣県・新潟で「相撲留学」をしている姿を見たからだ。
「今のままじゃ、中途半端だ! 強くなるために、新潟に行こう!」
当時、中学1年生から他県に行くことは珍しかったが、両親は泰輝少年の「熱意」にかけたのだ。
新潟県の糸魚川(いといがわ)市立能生(のう)中学校へは、相撲部の合宿所「かにや旅館」から徒歩で通った。ゲームやマンガ、携帯電話も禁止という相撲漬けの毎日の中で、泰輝少年の息抜きは、学校での授業。「普通の中学生」として、クラスメイトとたわいのない話をすることがうれしかったのだ。
その後、新潟県立海洋高校に進み、相撲を続けたものの、高校時代に獲(と)ったタイトルはひとつだけに終わった。
「タイトルをふたつ獲ったら、プロ(大相撲)に行く」という夢もあったが、高校卒業後の進路は、日本体育大学に決まった。
「6年間の新潟での厳しい生活は、相撲を続ける上での土台になりました。(日体大進学を決めたのは)齋藤(一雄)監督から、『将来、プロに進みたい気持ちがあるなら、ウチに来なさい』と、声をかけていただいたことがキッカケです」
強豪・日体大相撲部は全国からトップレベルの選手が集まることで知られている。そんな中、泰輝がハマったのが、筋トレだった。
「最初は、右も左もわからないまま、(校内の)トレーニングジムに通っていましたね(笑)。
日体大は自主性を重んじるというか、楽しく伸び伸び稽古ができる環境だったことが、自分に向いていたんだと思います」

並みいる大型力士の突進を受け止める瞬間、大の里の僧帽筋と三角筋、大胸筋が盛り上がる。横綱の強さの秘密は、その巨体に隠された筋肉だ
泰輝は1年時からその才能を開花させて、国体青年の部で優勝。11月のインカレでも優勝し、「学生横綱」に輝く。
さらに、3年時には「全日本相撲選手権」で優勝し、「アマチュア横綱」となる。そして、4年時には、ワールドゲームズで無差別級優勝、国体成年の部でも優勝。さらに2年連続で全日本相撲選手権を制したことで、幕下10枚目格付け出しの資格を得た。
■「プロ」を感じて二所ノ関部屋に入門
力士になることを決意した泰輝は、入門する部屋を決めかねていた。複数の部屋から勧誘を受けていたが、実際に自分の目で部屋を見学した上で、納得して入門したいと考えていたからだ。
候補のひとつが、横綱・稀勢の里が興した二所ノ関部屋だった。
「部屋を見学しに行った日に、(元大関の)髙安関に胸を出してもらったんです。そのときの胸の厚さ、腰の重さに『プロ』を感じました。そして、髙安関から、『(元兄弟子でもある)稀勢関(二所ノ関親方)のところで世話になれよ』と、アドバイスされたんです。
部屋が茨城県阿見(あみ)町にあって、国技館までは遠いし、近くに遊ぶ所もないんですが、逆に何もない環境だからこそ、相撲に集中できるんじゃないかと思ったんです」
こうして、23年夏場所、幕下10枚目格付け出しで初土俵を踏んだ大の里は、秋場所で新十両に昇進、24年初場所で新入幕を果たした。スピード出世ゆえ、ちょんまげを結えない「ザンバラ関取」としても注目を集めた。
■「ホーム」で5回目の優勝を狙う
その後、大の里は入幕3場所目の24年夏場所で初優勝の快挙を遂げる。初土俵から7場所での優勝は史上最速である。
同年秋場所で2度目の優勝を果たし、場所後は大関に昇進。
大関昇進直後の九州場所、25年初場所こそ成績が振るわなかったものの、春場所、夏場所と連続優勝したことで、第75代横綱に昇進した。初土俵から約2年。大卒力士としては、同郷の輪島(第54代)以来の横綱昇進だった。
8月の石川、新潟巡業では特に大きな声援を受け、支度部屋には、いつも多くの友人、知人が駆けつけたという。
「いろんな知り合いから(横綱昇進の)祝福を受けたり、ファンの方から声援をもらうと、横綱としての責任を感じます。
夏巡業中の楽しみは、高校野球の観戦。地元の高校のみならず、センバツで優勝した横浜高校の試合にハマりました! もちろんプロ野球も時間がある限り見ていますよ。
推しは、子供の頃から父親の影響でタイガース。今シーズン、タイガースの試合を観戦に行く予定もあったんですが、横綱昇進のタイミングと重なってしまって......」
大の里の「野球愛」は健在なようだ。

9月14日に初日を迎える秋場所は、関脇・若隆景の大関とりや、新小結の新鋭・安青錦(あおにしき)、先場所初優勝した前頭・琴勝峰ら若手の躍進も予想される。
「若隆景関の大関とりですか? 正直、ほかの力士のことを考えている余裕はないです。横綱として、彼らの壁にならなければ......という意識はありますけどね。
それより、僕、4回の優勝のうち、3回が東京(両国国技館)で決めているんですよ。『東京はホームで、得意』だと自分では思っているので、強気で優勝を狙いにいきたいですね!」
大の里は虎視眈々(たんたん)と5回目の優勝を狙う。
●大の里 泰輝(Daiki ONOSATO)
第75代横綱。2000年6月7日生まれ、石川県津幡町出身。本名は中村泰輝。二所ノ関部屋所属。身長192㎝、体重191㎏。
取材・文/武田葉月 写真/ヤナガワゴーッ!