トップロープを跳び越え、颯爽とリングインする菊田早苗
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第58回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。
前回につづき、「寝技世界一決定戦」アブダビ・コンバットで優勝し、パンクラスやPRIDEなどで活躍したレジェンド、菊田早苗をフィーチャーする。
【たったふたりで始めた練習】「ちゃんと鍛えて、もう一度やり直したい」
『バーリトゥード・ジャパン96』でのムスタク・アブドゥーラ(イラク)戦の傷が癒えた菊田早苗は悔しさでいっぱいだった。
「とにかく勝ちたかった。もうファイトマネーなんか関係なかった」
練習を再開すると、環境も新たに早稲田大学に近い新宿スポーツセンターに拠点を置く。名前のとおり練習場は新宿区の区営施設で、3階にある大武道場では空手、テコンドー、太極拳など他の格闘技や武道の愛好家たちが196畳ほどのスペースをシェアする形で汗を流していた。
当初トレーニングパートナーは佐々木有生(ゆうき)だけだった。佐々木は北海道釧路市出身で、地元では大道塾を通して格闘技の魅力に目覚めていた。のちにパンクラスや戦極(せんごく)で活躍することになるこのMMAファイターの本格的な出発点は公共の運動施設だった。菊田とはたまたま正道会館で顔を合わせ意気投合して一緒に練習するようになったという。
正道会館での練習のときと同様、菊田は「亀にならないこと」と「足関節」にフォーカスした練習に取り組んだ。まだ総合格闘技の練習をする者は少数で、練習教本など存在しない時代だった。すべては手さぐりだったが、そのふたつだけは外せなかった。
「とにかく体に染み込ませないといけないと思っていました」
当初、打ち込みやスパーリングをする相手は佐々木しかいなかったので、菊田はパスガードをするか、防ぐかという練習にも神経を注いだ。パスガードとは、下にいる相手のガード(防御)を崩して、より有利なポジションに移行する動きだ。
「佐々木君もパスガードをされない動きや三角絞めが得意だったし、逆にパスガードをするのもうまかった。お互い攻めたり守ったりを毎日何百回と繰り返していました」
ひじょうにシンプルな練習方法だったが、そのおかげで菊田は柔道時代にはさして得意でなかった寝技のスキルが格段に上達していく実感があった。
「アブダビ・コンバットでサウロ・ヒベイロとやったときも、パスされることはなかった。アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと闘ったときもそうですね。最初からいろいろな練習相手がいて、いろいろな練習をしていたらまた違っていたと思う。ふたりだけで、ひとつのことだけに特化するような練習を続けたことがのちに活きたんじゃないですかね」
2002年、初代PRIDEヘビー級王者のアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦。敗れはしたが、パスガードを許すことはなかった
菊田と佐々木の組み技練習会は口コミで総合格闘技を志す者たちにどんどん広がっていく。
だから、菊田のように民間の施設を時間借りして行なう練習会が続くだけでも異例だった。来る者は拒まず。菊田のもとにはひとり、またひとりと仲間が集まってきた。
「格闘技専門誌にスポセン(新宿スポーツセンターでの練習会)の記事が載ったら、一気に広まった感じでしたね。当時はネットもない時代だったので、専門誌の影響がホント大きかった」
桜井マッハ速人、佐藤ルミナ、高瀬大樹、宇野薫、須藤元気......。特筆すべきは、当時は公に出稽古に行くこともなかったパンクラスの面々も顔を出していたことだろう。興行的にみると修斗とパンクラスは明らかに対立しており、お互い歩み寄る気配もなかった。しかしながら、新宿スポーツセンターでは巷の格闘技ファンが見たらただちに卒倒しそうな修斗vsパンクラスの夢の対決が、スパーリング形式とはいえ実現していたのだ。
【強くなるためには壁は必要ない】ただ、その夢の対決を写真に収め、専門誌に載せることはできなかった。団体側に確認を取らなくてもNGが出ることは明らかだったからだ。
その後、いろいろな団体の選手が集まって行なう合同練習のような場はいくつもできた。現在なら長南亮氏のTRIBE TOKYO MMA や八隅孝平氏のロータス世田谷などのジムが思い浮かぶが、そのパイオニアというべき存在は間違いなく菊田のグループだった。
時間が経つと、その合同練習は「新宿スポーツセンター軍団」と呼ばれるようになる。400円の入館料以外お金はかからず、団体や大会の違いで壁を作ることもなかった。菊田は、強くなるためにはそういう壁は必要ないと考えていた。
のちに「GRABAKA(グラバカ)」と改名したのは、合同練習の場というだけではなく、所属するチームとして捉えることを希望する選手が続々と出てきたからだ。軍団の長として菊田はGRABAKAとしてチームをまとめるだけではなく、選手としても上昇気流に乗る。
1997年4月4日、リングスの若手の登竜門というべき大会『リングス BATTLE GENESIS』に参戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。同年10月14日にはその第2回大会に出場し、のちにプロレスラーとして大成する田中稔をネックロックで仕留めた。
当時のUWF系の団体の試合リポートはプロレス専門誌、格闘技専門誌のどちらにも掲載されていたが、前者での菊田の評価はいまひとつだった。例えばリングス2戦目では「田中がアマチュアに負けた」と完全に相手側の目線で報じられていた。
「もう僕もプロデビューしていたのに、格闘技はアマチュアと書かれたので、書いた記者に文句を言いました」
総合格闘技は過渡期。UWF系の団体はロープエスケープ制を採用していたが、柔道で「一度極まったら勝負は終わり」という世界に身を置いていた菊田にとっては、「エスケープを3回奪っても、ダウン1回相当にしかみなされない」ルールは苦痛以外の何物でもなかった。
「ロープエスケープは止めたほうがいいと思いました」
先に記したムスタク戦ではあれだけグラウンド時の打撃に苦しめられたのに、練習を積み重ねていくうちに菊田は、「総合の寝技でパンチは必要不可欠」と考えを改めるようになっていた。
「パンチがあるから総合での寝技は決まる。たぶんヒクソン・グレイシーも僕と同じ考えだと思います」
その後、パンクラスを活動の拠点とするようになったのは、この団体が「パンチは反則ながら掌底はOK」というUWFスタイルをベースとしたルールと平行して、「スタンドでもグラウンドでも顔面パンチOK」とするパンクラチオンルールを採用したことが大きかった。後者にはロープエスケープもなかった。
「別にロープブレークがなければ、どこの団体でも問題はなかった。あのときのパンクラスはちょうどオープンフィンガーグローブを導入するという時代だったんですよね。掌底ルールのままだったら、ちょっと僕の感覚とは違いましたね。勝てる気がしないというか、全く別のルールかなと」
総合格闘技がどんどんバーリトゥードに傾倒していく時代、格闘技色が強いだけのプロレスは淘汰されつつあった。
菊田に、ようやく追い風が吹き始めた。
格闘技ジム「GRABAKA」を主宰する、現在の菊田早苗(撮影/布施鋼治)
●菊田早苗(きくた・さなえ)
1971年生まれ、東京都練馬区出身。
取材・文/布施鋼治 撮影/長尾 迪



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