プロ・アマ問わずに長く愛されているシリーズだが、全世界で認知が拡大したのは誕生翌年の1986年メキシコワールドカップでブラジル代表FWカレカが使用したことにある。
この度、モレリア40周年に合わせてカレカ氏が来日。改めてモレリアとの思い出を語った。
ミズノとの出会いはカレカ氏がサンパウロに在籍時代。1984年に加入してきた日本人FW水島武蔵氏がミズノ製品を着用していたことが目に留まり、「武蔵さんの足元を見て、素晴らしいシューズがあったので、プレゼントしてほしいとお願いしたんです。履かせてももらったんですが、その時から恋に落ちましたね」と笑顔で当時を振り返り、「モレリアの世界デビューは86年のメキシコW杯。そして私は87年にナポリへ移籍しました。そこからモレリアの世界への伝道師としての活動が始まったんです。当時、ナポリは世界でもトップクラブの一つでしたし、注目が急速に高まりました。ディエゴ・マラドーナやジャンフランコ・ゾラの目にも触れ、世界各国のトッププレーヤーにも浸透しました。実は先日、イタリアでレジェンドマッチがあり、ゾラも一緒にプレーもしたんですが、彼ももちろんモレリアを履いていましたよ。当時から続く、ミズノへの彼の愛も確認してきました」と冗談を交えつつ、モレリアの歴史をなぞっていく。
カレカ氏はナポリ退団後の1993年に来日。当時Jリーグ参入を目指していた柏レイソルに加入する。
「人生の中でも日本では素晴らしい時間を過ごしました。4年間、柏でプレーしましたが、長女、次女、長男の全員が地元の公立学校に進学したんです。インターナショナルスクールに入ることを勧められたんですが、日本文化を学ぶいい機会だと思ったので。長女は今でも日本語を話せますし、契約が終わってブラジルに帰国する時、妻ももっと日本にいたいと残念がっていました。それくらい日本の皆さんと親しくさせていただいたんです。サンパウロにも多くの日本からの移民の方がいて、身近であることも含め、日本文化へのリスペクトや愛着は当時も、今も感じています」
当時を振り返り、時折笑顔になりながら、昔も今も日本に対してのポジティブな印象は変わらない様子を見せた。
日立製作所サッカー部を母体としてJリーグ参入を目指した柏レイソルだが、1993年のJFLでは5位で終わり、Jリーグカップでも得失点差で決勝トーナメント進出を逃し、1994年からのJリーグ参加は叶わず。それでも1994年のJFLを2位で終え、1995年からのJリーグ参入を果たしている。カレカ氏は1993年秋、黄金時代を築いたナポリから、まだJリーグ参加が決まっていない柏にやってきた。
カレカ氏は、「当時8万人の観衆に囲まれてプレーしていたところから、200人の観衆の前でプレーする環境を選んだんです」と笑いつつ、「大きなチャレンジでした。
現役時代や自身が10代の頃、ブラジルでの特に子どもたちのサッカー環境は、今ほど整ってはいなかった。そのことをカレカ氏に向けると、苦労する環境の中でも成長をあきらめなかった姿勢を示す。
「当時のスパイクのソールは現在のように貼っているのではなく釘で、よくプレー中に飛び出して、足に刺さってケガをすることもありました。スパイクの中にものを入れ、釘を押し戻してプレーを続けたりしていましたね。でも、ミズノの靴は当時からスペシャルな糊で貼ってあり、その必要がなかった。
現在は10代のお孫さんが3人、サッカーをやっているそうで、「モレリアを持って帰ってプレゼントするんですが、ずいぶん時代も変わったということですね。世代でサッカー環境もどんどん変わってきていると私も感じています。3人にはサッカーで成功してほしいですね。どこまで行けるかはわからないですが、1人でもトップレベルに進んでくれたらうれしいです」と、最後は祖父としての表情を見せてくれている。
取材=小松春生