ただ、「俺の運転、評判いいんだよな」という人にこそ、佐藤さん(仮名・26歳)がため息交じりで話すエピソードを聞いてほしい。
走り屋を自称する面倒くさい先輩社員
木下さん(仮名・46歳)は、大手メーカーの営業職。担当エリアが広く、毎日のように営業車で移動している。佐藤さんが初めて木下さんの車に同乗したのは、入社して間もない頃だったそうだ。「最初は本当に何も思っていなかったんです。運転、落ち着いてる人だな、くらいの印象で。でも、走り出して5分くらいで、あれ?ってなりました」
緩やかなカーブにさしかかったとき、木下さんはハンドルからすっと片手を離し、もう片方だけでなめらかにカーブを切った。そして、ちらりとこちらを見て言った。
「俺、昔は走り屋だったからさ。こういうカーブは余裕なんだよね」
佐藤さんは反射的に「すごいですね」と返した。すると木下さんは満足そうに頷きながら続けた。
「ハンドルって、こうやって軽く握るのがコツなんだよ。力入れてる人は下手な人が多い。教習所では教えてくれないんだけど」
頼んでいない「ドライビングレッスン」が、ここから始まったのだ。
木下さんの運転には、いくつかお決まりのパターンがあったようだ。
相槌を打つことが仕事に…
急な飛び出しに素早くブレーキを踏んだとき、前の車がやや強引に割り込んできたとき。そのたびに木下さんはこちらをちらっと見て、確認するように言う。「今の見た? 俺、ちゃんと対処できてたでしょ?」
「最初のうちは、素直に『さすがですね』って言えてたんです。でも、それが毎回続くと、だんだん次何を言えばいいんだろうって考慮するようになってきて。気がついたら、運転の話に合わせるのが仕事になっていました」
渋滞にはまると、木下さんはハンドルを小刻みに叩きながらぼやく。
「最近ほんと下手くそが多いんだよな。こういう時の車線変更、みんなわかってないんだよ」
その都度、何か相槌を打たなければいけない空気がある。黙っていると、なんとなく気まずい。
「運転自体は丁寧なんです。急発進とかもないし、安全は安全なんですよ。ただ、助手席にいる間ずっと、うっすら気を遣っている感じというか。目的地に着いたときに、なぜかちょっとドッと疲れる、みたいな」
「助手席に乗りたくない男」と称される
こうした話は、いつの頃からか、女性社員の間でちょっとした「共通の話題」になっていた。「最初に話したのは、同期の子に『この前木下さんと同乗したんだけど、なんか疲れた』って話したら、『あ~わかる!』って即答されたんです。
シフトや営業の割り振りで木下さんの車に乗ることになると、社内のグループチャットに「今日木下さんと一緒です」と送る子が出てきた。すると「お疲れさま(笑)」「帰ってきたら話聞ね」という返信がくる。
「最終的には、木下さんの車は覚悟して乗るもの、みたいな感じで、新人への引き継ぎ事項みたいになってきて。誰かが笑いながら『運転はうまいんだけどね』って言うんですけど、その“だけどね”のあとが結構長いんですよね(笑)」
気づけば、社内では「助手席に乗りたくない男」として、木下さんの名前がひそかに定着していた。
ところが、当の木下さんは、そういった社内の空気に気づいている様子はまったくないのだという。
ある夜、会社の飲み会でほろ酔いになった木下さんが、こんな話を始めた。
「俺さ、運転に関しては評判いいと思うんだよね。みんな、俺の車だとなんか安心してくれてる感じがするんだよな」
その場にいた佐藤さんと同僚は、思わず顔を見合わせた。
「否定も肯定もできなくて、みんなで『そうですね~』ってなったんですけど、あとで同僚とふたりで『……評判、そうかなあ』って(笑)。悪い人じゃないのは本当にそうで、だからこそ何も言えないんですよね」
技術は高いはずなのに、なぜ?
佐藤さんは最後にこう話してくれた。「木下さんは本当に悪気がないんだと思うんです。運転が好きで、ちょっと自慢したい気持ちもあるのかもしれないけど、それ自体はわかる気もするし。
運転がうまいことと、同乗者が快適に過ごせることは、必ずしもイコールではない。
木下さんのケースは、ちょっとしたズレが積み重なった話だ。でも、そのズレに気づけるかどうかは、自分では案外わからないものである。
もし最近、なんとなく同乗を誘いづらい雰囲気になってきたな、と感じることがあるなら…一度、助手席に座った人の表情を、さりげなく確認してみてもいいかもしれない。
<TEXT/maki>
【maki】
ライター・エッセイストとして活動中。趣味は人間観察と読書。取材からエッセイ、コラムまで幅広く執筆している
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