「補殺」「刺す」「犠牲打」などの野球用語が見直しへ

「補殺」「刺す」などの野球用語が見直しへ…賛否を呼んだ宮城県...の画像はこちら >>
 宮城県の高校野球連盟(高野連)が「補殺」や「刺す」、「犠牲打」といった野球用語を見直すための検討委員会を設置したというニュースが、大きな波紋を広げています。

 ネット上では批判の声が殺到しました。その多くは「あまりに過剰な言葉狩りだ」という意見です。
なかには皮肉を交えて「この人たちはお刺身を食べたり、殺虫剤を使ったりもしないのだろうか」といった極端な反論まで飛び出しています。同時に、「言葉をいじる暇があるなら、夏の甲子園に向けた熱中症対策の効果を検証する方が先だ」という現実的な指摘や、「部活動内での体罰やいじめ、高圧的な指導といった根深い問題を解決する方が先ではないか」という、高校野球のガバナンスそのものへの厳しい意見も数多く見られます。

 しかしその一方で、野球の現場、特に少年野球の保護者などからは「指導者が子供たちに向かって『そこで刺せ!』『殺せ!』と叫んでいる現状に、ずっと違和感があった」という疑問の声が上がっているのも、紛れもない事実です。

 またプロ野球、中日ドラゴンズの井上一樹監督も同様の問題意識を持っていることが明らかになりました。6月24日のDeNAベイスターズとの試合後の会見で相手ランナーとのタッチプレーを振り返った際に、「ランナーを殺しにいかないといけないプレーだったかなと思います。殺せた…殺すって表現はよくないか」と語ったのです。

 このように、プロの野球人でさえ無意識に使い、しかも自ら言い直したという事実は、この問題が個人の資質や世代の問題ではないことを示していると言えるでしょう。

 だからこそ、今回の宮城高野連の動きは、コンプライアンスを意識しすぎた一部の大人たちによる「偏った思想の暴走」と言い切るわけにもいかないのです。

「表面的な言葉狩り」だとは言い切れない理由

 重要なのは、日常的に「殺」や「刺」という過激な言葉を繰り返し使うことで、それらの言葉が本来持っているはずの恐怖や重みに対して、子供たちの意識のハードルが下がってしまうという心理的なリスクです。グラウンドの中で「記号」としてカジュアルにこれらを利用しているうちに、攻撃的な言葉への心理的な抵抗感が薄れる可能性も否定できません。

 チームメート同士のSNSでのやり取りなどの日常のコミュニケーションにおいても、行動がその言葉の暴力性に引きずられてしまう可能性を過小評価すべきではないでしょう。少年たちが自分の肉体を使って叫ぶ言葉だからこそ、その影響力は大きいのです。

 その意味で、今回の高野連の動きは表面的な言葉狩りだとは言い切れません。
むしろ、海外の先進的なスポーツ界の趨勢を汲んだ、極めて論理的なアップデートへの一歩だと言えます。

 その根拠として、世界のスポーツにおける過激な表現のアップデートは、何年も前から行われていることが挙げられます。

 例えば、「eスポーツ(対戦型ゲーム)」のケースです。世界中で大ヒットしている『PUBG MOBILE』というゲームのプロリーグ向け公式大会規約では、2023年の改定の際、スコアのカウント方法においてそれまでの「kill(殺害)」という単語から「elimination(排除・脱落)」へと明確に言い換えるアップデートが行われました。小中高生に圧倒的な人気を誇る『フォートナイト』でも、最初から「kill」という言葉は使われない仕様になっています。

 また、アメリカンフットボールの本場である米国でも、2001年の同時多発テロ(9・11)以降、スポーツメディアの放送ガイドラインにおいて大きな変化がありました。長距離パスを意味する「Bomb(爆弾)」や、クォーターバックを急襲する「Blitz(電撃戦)」といった戦争を連想させる比喩表現(ミリタリー・メタファー)の過剰な使用を自粛する約束が交わされ、現在は「ディープパス」などの客観的な競技用語への移行が進んでいます。

 もっとも、この二つの動機は同じではありません。eスポーツの場合は暴力表現そのものへのレーティング上の配慮であり、NFLの場合はテロという特定の歴史的記憶への配慮です。

 それでも、共通しているのはいずれも言葉が持つ暴力性が受け手の感覚を鈍らせ得るというリスクへの自覚なのです。

「英語以上に暴力性が伝わりやすい」日本語の特性

 そして、こうした海外の事例を踏まえたとしても、日本の野球用語が持つ独特の危うさを指摘しておかねばなりません。英語の「Putout」や「Sacrifice」といった言葉に比べて、日本語の「補殺」や「刺す」「犠牲」という言葉は、漢字そのものが持つ視覚的・聴覚的な意味の生々しさが突出しているからです。

 日本語は漢字によって意味が視覚的にも強く伝わる言語であり、「補殺」「刺す」のような表現は英語以上に暴力性が伝わりやすい特性があります。
刺々しい響きが、野球という競技のイメージに与えるマイナスの影響について懸念するのは、決して不自然なことではありません。

 さらに、少年野球を指導する大人がなんのためらいもなく「補殺」や「刺す」などの言葉を使うことによって、子供たちに体罰や威圧的な態度を取ることへの悪い意味での免疫がついてしまうのではないかという不安が起こり得ることも納得できる話です。

 もし高野連の言う「教育上の問題」が、こうした言葉の持つむき出しの感覚が与える悪影響を想定しているのであれば、今回の見直し検討には一応の理解ができると言えます。

高野連の対応を「過剰だ」と批判する人々の心理

 それでも、今回の動きを批判する人たちは、これを「歴史修正主義」的なアプローチだと言ったり、ポリティカル・コレクトネスを重視しすぎるあまりの「過剰反応」だと主張します。

 ここで思い出されるのが、2023年にイギリスで起きたロアルド・ダールの表現修正問題です。高野連の対応を「過剰だ」と批判する人々の心理は、このダールの一件への反発と、どこか重なるところがあるからです。

『チャーリーとチョコレート工場』などで知られるダールの児童文学について、現代の価値観から見て人種差別的、あるいは外見差別的とされる語句が出版社によって修正され、これがイギリス国会を巻き込むほどの大論争に発展しました。

 結果として「これは行き過ぎた検閲であり、歴史の書き換えだ」という世論が優勢になり、最終的にはオリジナルのバージョンも並行して出版し直されるという結末を迎えました。時代に合わせた表現に修正するという流れに、明確な「NO」が突きつけられた一件です。

 しかし、高校野球の言葉と、ロアルド・ダールの小説の一件は、異なる種類の話です。ダールの文学作品は歪んだユーモアや毒を表現するために、ダールという作家が自身の名前と責任において、「この言葉でなければいけない」という信念のもとに選んだ、固有の芸術作品です。また、その本を読むかどうかは、読者が自らの意思で選ぶことができます。

 一方で、野球の用語は個人の創造力の産物ではありません。
それは条例や法律、公的な文書の文言に近い、いわば競技を円滑に進めるための「共有の道具であり、記号」に過ぎないのです。ダールの言葉が「そうでなければならない」必然性を持つのに対し、「補殺」や「刺す」は、時代の価値観に合わせていつでも変更可能な、ただのシステム上の記号なのです。

「補殺」や「刺す」と言わなくなったからといって、野球の試合が成り立たなくなるわけではないのです。

いじめや体罰、指導者のパワハラ問題にも取り組まなければならない

 だからこそ冒頭で紹介した『体罰の方が先だ』という批判は、この一点において正しいとも言えます。もし「教育上の理由」から言い換えるのであれば、高野連は本腰を入れて、部活動内でのいじめや体罰、指導者のパワハラ問題といった「実態のガバナンス」にも取り組まなければならないからです。表面の言葉だけを綺麗にして、中身の陰湿な構造が放置されるようであれば、ただの「免罪符としての言い換え」になってしまい、画竜点睛を欠くことになりかねないでしょう。

 その点においては、高野連はまだまだ世の中から信頼されているとは言えないからです。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4
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