アイドルグループ・滄茫RESONICA(以下、レゾニカ)のピンク担当である、うさきちさん。彼女の腕には大小さまざまな刺青がある。
和彫りではなく、何らかのキャラクターを思いのままにキャンパスに描いたような、にぎやかさが特徴だ。
 刺青をしたままアイドルに転身した異色の女性の話に耳を傾けた。

「娘が入れた刺青」を見た母の“まさかの行動とは。「ピアスを開...の画像はこちら >>

ファーストタトゥーは「水樹奈々」にちなんだ数字

――なかなか目立つ場所に刺青がありますが、アイドルをやられています。いろんな声が届きませんか。

うさきち:
そうなんです。刺青に対するスタンスって、人によって明確だと思っていて。その人の好き/嫌いはこちらでどうしようもないですしその人それぞれの価値観でいいと思ってます。それでやはり「刺青は嫌い」と思われる方が私に寄って来てくれなくてもそれはその人の価値観なのでいいという考え方です。

 不快に思う人を捕まえて見せびらかす気もないですし、環境に恵まれているので最近は何かネガティブな声が直接届くことはあまりないですね。「この刺青可愛いね」というスタンスの人の方が周りに多く、自分で好きで入れたものなのに褒めてもらえてありがたいなという感じです。

――ファーストタトゥーはなんでしたか。

うさきち:
19歳のとき、「1~7」の文字を彫りました。ティム・バートン監督が使用するフォントが大好きで、どうしても彫りたくなったんですよ。


――なぜ8以降は彫らなかったのでしょう。

うさきち:
水樹奈々さんがライブのときにやる定番の「1、2、3、4、5、6、7(奈々)ーっ!」という掛け声があるんですが、敬愛する彼女のライブ映像をみたときに「これだ!」と思って(笑)。

娘に伴走する母。なんとタトゥーまで彫ってくれた

――聞いたことのない理由過ぎます。ご家族から止められませんでしたか。

うさきち:
止められました。もともと、うちの家族は放任主義なんです。「法律さえ破らなければ、何をしていても自由。その代わり自己責任」みたいなところがあって。たださすがに、3個目の刺青くらいまではかなり母は嫌がっていたと思います。「これ以上は入れないでね」と。

 でも、私が言うことを素直に聞くはずもなく……。
すると、母が「子どもがやることは親もやらないとね」と言って、ごく小さくですが、刺青を入れてきたんです(笑)。思えば、私が初めてピアスを開けたときもそうでしたね。病院で開けたのですが、数日して、「私も開けた」とか言って(笑)。

――えー! お父様は……?

うさきち:
父にはまだ伝えていません。私の刺青さえ知らないので。初めて刺青を入れたときも、母から「お父さんにだけは絶対に言わないように」と釘を刺されていました。

 実家で過ごすときはずっと、長袖長ズボンなんですよ。たまに「暑くないの?」と言われるんですが、「日焼けしたくないの」とか言って全力で誤魔化します。

ヘルニアでダンスを諦め社会人の道を選んだ過去

「娘が入れた刺青」を見た母の“まさかの行動とは。「ピアスを開けたときも数日後に…」
うさきち
――そもそも、どうしてアイドルになろうと思ったんですか。

うさきち:
ジャンルとしてはアイドルなんですが、メンバーのなかにデスボイスを出す子がいたり、一般的にイメージされるアイドルとはちょっと乖離があるかもしれません。

 私自身は、幼稚園年中からずっとダンスを続けてきて、中高生のときにはバックダンサーや振付師として仕事をもらったりもしていました。踊り続けたいという気持ちはずっとあったんです。

 しかし頸のヘルニアになったこともあり、「本当に一生この仕事をやられるのだろうか」と一抹の不安もありました。
そうしたなかで、高卒後は社会人になる道を選んだんですよね。

――社会人としてはどのような仕事を。

うさきち:
長く続けたのは、デザイナーですね。日用品のデザインをやっていました。アメリカに住んで仕事をしていたのですが、コロナ禍だったので人との交流もなくアジアンヘイトで出歩きもしづらくなり……しかも言語にも不安があるなかで役所の手続きなどをひとりでこなさなければならないのは、結構たいへんでした。

 あらかじめ電話で役所に必要な書類を聞いて揃えて行ったのに、「あぁ、この書類も必要だったわ。ごめんね、今日は手続きできない」みたいなことがあったり買い物でもお会計に30分待たされるとかもあり……日本がいかに教育を徹底されていて住みやすいか、身に染みました。

渡米のきっかけは、うつ病だった

――散々なアメリカ滞在だった。

うさきち:
渡米した当初は正直、そう思っていました。もとを辿ると、アメリカで仕事をするのも「環境を変える」という強い思いがあったんです。

 日本で働いていた当時、ある日突然に身体が動かなくなってしまったんです。起きることはできるんですが、たとえば休日はぼーっと壁を見つめているだけで涙が出てくるんです。心配した友人が「典型的なうつ病だから」と駆けつけてくれて、心療内科に連れて行ってくれました。
治療が奏功してうまくいったおかげで、渡米しようとも思えたんでしょうね。

 アメリカで学んだことは、「どんなものであっても、自分が好きだと心の底から思えるものなら、やればいい」ということですね。日本にいるときは「自分がこんな格好をしたら、相手はどう思うかな」と考えていましたが、道を行き交うアメリカ人の自由な様子を見ていると「そんなこと考えなくていいんだ」と思えました。

 アメリカでは、驚くほど褒め合うんです。本当に小さなことです。「その靴、かわいいね」「ナイスな洋服だ」とか、その程度のことですが、褒められて悪い気持ちになる人はいないじゃないですか。そういうのが、大切だなと思えたんですよね。

――日本にいた頃は、いろいろと考えすぎて行動できないこともあった。

うさきち:
そうですね、たとえば複数でご飯に行こうみたいな話になったとしますよね。「どうする?」「ラーメンでいいか?」「うん」みたいな、日常会話があったとして、ある人がちょっと返答に間があったり、目線がズレたりすると、「本当はあまり気分じゃなかったんだろうな」とか考えてしまうんですよ。で、ひどいときはそれを夜寝るときまで考えてしまいます。「あそこでどうするべきだったかなぁ」とか。


 精神的に食らってしまうことも多くて、うつ病もその蓄積で発症したのではないかと言われました。確かに、何か決定的な出来事があったわけではないんですよね。

自分の気持ちを解放できるようになった

――アメリカへ行ったことで、帰国後にどう変われましたか。

うさきち:
服装においても髪型においても、「もう◯◯歳だから、この体型だからやめておこう」みたいなものがなくなりましたよね。もちろん、職業も。もともとレゾニカのグループにも、お互い初めて行った飲み屋さんでたまたま出会った子と仲良くなりそののちグループに誘ってもらったんです。それが現在のリーダーです。本当に感謝してます。

 昔なら、「そんな年齢でもないし」「定職についたほうがいいから」「こんなに刺青がたくさん入っているのにアイドルをやっていいのか」と当たり前すぎる常識を盾にして、踊りたい、歌いたい、という気持ちを封じ込めていたと思います。でも、「楽しいほうに進んでみようかな」と思えたんですよね。

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「好きに生きればいい」と人は言うが、実行には苦悩が伴う。繊細で、ものごとの移ろいに敏感過ぎたうさきちさんは、行動することで人生を引き寄せた。
つらくても、歩けば景色は必ず変わる。

「娘が入れた刺青」を見た母の“まさかの行動とは。「ピアスを開けたときも数日後に…」
うさきち


「娘が入れた刺青」を見た母の“まさかの行動とは。「ピアスを開けたときも数日後に…」
うさきち


<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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