川上哲治がつけ、永久欠番となった「16」。後に「打撃の神様」と称された川上だが、熊本工から1938年に入団した時は投手だった。
42年に軍隊に入り、46年から復帰。49年にコーチ兼任となり、51~57年は水原茂監督のもとで助監督を兼任した。
首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最高出塁3回、最多安打6回、MVP3回…。数々のバットマンとしての勲章を残して58年に現役を引退する。
59、60年はコーチとなり61年から監督に就任するが、背番号は「16」のままだった。
61年に南海、63年に西鉄を破り日本一になるも、64年は3位に終わる。年が開けた65年1月、川上は「勲章のようにつけていても意味がない。気分を切り替える」と「16」の返上を表明し、この時に永久欠番となる。そして新しくつけた「77」で栄光の9連覇が始まるのだ。