巨人の長嶋茂雄終身名誉監督=報知新聞社客員=が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。

読売新聞社が発表した。 葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は次女の三奈氏。遺族の意向により弔問、香典、供物、弔電は辞退する。後日、お別れの会を開く。日程、会場は決まり次第発表する。

 戦後の球界に彗星(すいせい)のごとく現れ、巨人を不滅のV9へと導くなど、プロ野球を国民的娯楽へと発展させた立役者。数々のドラマと偉業に彩られた、日本球界最高のスーパースター、「ミスター」が、その生涯の幕を閉じた。

 病に倒れたのは、2004年3月。脳梗塞(こうそく)により、右半身にまひが残った。壮絶なリハビリを経て、その後表舞台に復帰したが、22年9月に体調不良で緊急入院。以降は入院生活が続く中でも、巨人戦の観戦に訪れるなど衰えない野球愛を見せていた。

最後に東京ドームを訪れたのは、今年3月15日の巨人とドジャースのプレシーズンマッチ。大谷翔平との貴重な2ショットを披露していた。

 1958年、東京六大学の立大から鳴り物入りで巨人軍に入団。開幕戦で国鉄のエース金田正一と対戦し、4打席連続三振の衝撃デビュー。しかしルーキーイヤーのこの年、本塁打と打点の2冠を獲得、新人王に選ばれた。翌59年6月25日のプロ野球初の天覧試合では、阪神・村山実から劇的なサヨナラアーチ。プロ野球の人気を不動のものとした。

 王貞治とのON砲として65~73年の「V9」に貢献。74年に現役を引退するまで首位打者6回など輝かしい数字を残した。引退試合では「我が巨人軍は永久に不滅です」という名スピーチ。日本中のファンが涙した。

 75年に監督に就任。

その年、巨人軍は史上初の最下位に沈むが、これもまた長嶋伝説の一つだった。監督を2期、通算15年務め、5度のリーグ優勝と2度の日本一を達成した。その中でも、94年10月8日、中日との最終戦、勝った方が優勝という「国民的行事」で勝利。96年は広島につけられた11・5ゲーム差をひっくり返した「メークドラマ」。数々の“歴史”を残した。

 2001年の退任後には、アテネ五輪日本代表監督に就任したが、04年3月に脳梗塞で倒れて入院し、五輪では指揮を執れなかった。その後、懸命なリハビリにより、再び公の場に姿を見せた。13年にはまな弟子の松井秀喜氏と共に国民栄誉賞を授与された。18年7月に胆石の治療のために入院し、同12月末に退院。21年7月には東京五輪の開会式で盟友の王貞治氏、松井氏とともに聖火リレーに参加した。同11月には文化勲章を受章していた。

 22年9月に、都内の自宅で尻もちをついた際に後頭部を打ち、脳内に多少の出血があったため、緊急入院。

その後は、入院して療養生活を送りながらも、教え子の巨人・阿部慎之助監督を球場で何度も激励し、元気な姿を見せていた。

◆長嶋 茂雄(ながしま・しげお) 1936年2月20日、千葉県生まれ。佐倉一高(現佐倉高)から立大を経て、57年に巨人入団。ルーキーイヤーの58年、新人王、本塁打王、打点王を獲得。59年6月25日の天覧試合(対阪神)では、同点弾とサヨナラ弾を放つ。王貞治と「ON砲」を組み、65~73年のV9を支える。74年現役引退。75年、巨人監督に就任するも、球団初の最下位に。76年からリーグ連覇。80年に退き、93年に監督復帰。94、96、2000年と3度優勝。94、00年は日本一。

01年シーズンを最後に勇退。その後、アテネ五輪日本代表監督に就任。03年にはアジア予選で3戦全勝し、アテネ行きを決めたが、病気のため本戦では指揮を執ることはできなかった。88年、野球殿堂入り。13年に松井秀喜氏とともに国民栄誉賞を授与された。21年には東京五輪の開会式で王氏、松井氏とともに聖火リレーに参加した。同年、野球界で初めて文化勲章を受章した。

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