3日に亡くなった長嶋茂雄さんの立大入学に関わったのが当時の報知新聞記者・田中茂光氏(95)。田中氏が「立大・長嶋」誕生秘話を明かした。

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 低い弾道で県営大宮球場のバックスクリーンに到達したアーチは、日本野球史を変える一発になった。

 1953年8月1日、高校野球南関東大会1回戦の佐倉一・熊谷戦。6回だ。佐倉一の3年生4番・長嶋は熊谷の2年生エース・福島郁夫の内角高め直球を強振した。ライナー性の打球はバックスクリーンに突き刺さる。長嶋の公式戦唯一のアーチ。敗れはしたが、長嶋伝説の始まりである。

 田中氏はそれから1年前、すでに「佐倉一・長嶋」に着目していた。「朝日新聞の千葉県版に載っていた佐倉一の紹介に『遊撃の長嶋は粗いけれどもスケールが大きい』とあって、何となく頭に残っていたんです」

 田中氏は朝日新聞の名物記者・久保田高行氏と親交があった。久保田氏は伝説のアーチを現地で目撃していた。夏の終わり、こんな話を聞いた。「田中君、長嶋の本塁打はすごかったぞ。

外野で見ていたら、すぐそばに飛んで来たんだよ」

 秋になると、田中氏はつきあいの深い社会人野球・富士製鉄室蘭の小野秀夫マネジャーから相談された。「名前が知られていない有望選手はいませんか」。東京・北海道間はプロペラ機で移動の時代。有名選手は室蘭にまで来なかった。「佐倉一に長嶋というサードがいる。久保田さんも絶賛していたぞ」「それなら間違いないですね」

 小野マネジャーは佐倉の長嶋家に向かった。父・利さんに茂雄の入社を直談判すると、こんな答えが返ってきた。「長男を大学に行かせられなかった。茂雄は進学させたい」。法大からも話が来ていた。立大OBの小野マネは方針転換した。「立教はどうですか。

砂押邦信監督は育成が上手です」

 直後、長嶋さんは東京・東長崎の立大グラウンドで練習に参加。紅白戦でライナー性の右中間二塁打を放った。砂押監督は才能にほれ込んだ。阪急や巨人などプロ数球団も獲得に動くが、立大の囲い込みは強固だった。

 立大入学後。砂押監督は日が落ちた後も、ボールに石灰をつけ“闇夜の1000本ノック”で長嶋を鍛えた。自宅の庭に呼んでは素振りをさせた。猛特訓の結果、2年から正三塁手となり、4年秋には当時のリーグ通算最多を更新する8号をマーク。巨人と南海が争奪戦を繰り広げた結果、巨人入りを決断した。

 田中氏は振り返る。「もし法大に行っていたら、砂押さんに会わなければ…その後の長嶋茂雄はいなかったでしょう。間接的にですが、進路に関われたことは、誇りでもありますね」(加藤 弘士)

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