戦後の日本を象徴するスーパースターで、「ミスタープロ野球」と称された巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さん=報知新聞社客員=が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。
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贈り物や届け物をすると、長嶋さんから電話がかかってきた。その日の体調や機嫌など関係なかった。必ずだった。3月18日の午後、私は、ドジャースの大谷とのツーショット写真パネルを入院する病院へ届けた。「どうもありがとうございます」。お礼の電話だといつも以上に丁寧な口調になった。
その3日前、東京ドームで長嶋さんと大谷とが面会した末席に、私も加えてもらった。そのお礼も述べた。長嶋さんの言葉は聞き取れなかったが、対面できたことを喜んでいる様子は電話越しに伝わってきた。そして、それが私にとって長嶋さんとの最後の会話だった。
長嶋さんはこのパネル十数枚を焼き増し、ごく親しい仲間へ送った。本人の署名が入った手紙が添えられていたという。おそらく、もう会うことのない友人へのこれまでの感謝と最後のお別れの意味が込められていたのかもしれない。
巨人の監督を退任した2001年、当時の巨人担当キャップだった私が、客員として報知に加わった長嶋さんの評論やコラムの窓口となる役割を担うことになった。ただ、ビジネス局へ異動する2017年の6月まで、16年半も担当するとは思ってもみなかった。
長嶋さんは、監督として巨人が負けることをどこまでも受け入れず、勝利のためあらゆる手段を尽くして才能を求め続けていた。にもかかわらず、ひとたびユニホームを脱ぐと、相対的弱者や私のような不出来な人間に対して驚くほど優しかった。
2000年は盟友・王さんと唯一、敵味方に分かれた日本シリーズ、いわゆる「ONシリーズ」で盛り上がった。福岡へ場所を移した第4戦の朝だったと記憶している。突然、電話がかかってきた。
「おーい、トレードが進んでいるの、知ってるか?」。これから大一番が待っているのに、私としゃべっている場合じゃないだろう、と思ったのを今も覚えている。
長嶋さんはそれ以降、以前にも増して取材に丁寧に答えてくれるようになった。打撃論になると、ホテルの喫茶室でも突然立ち上がり、身ぶりで解説してくれた。質問をすれば、いつまでも付き合ってくれた。野球記者としてロクな知識も取材力もない私を長嶋さんは心配していたのだと思う。
2004年に脳梗塞を発病した後は、リハビリの施設で取材をしたり、お茶に付き合ってもらったりした。2015年の秋口は、DeNAの中畑清監督の去就が注目されていた。「中畑さんどうされるんでしょうね」。
後に長嶋さんから聞いた話だが、ミスターはまな弟子のキヨシに自らの経験も交えて「今はBクラス。成績が悪い年はフロントの言うことを聞いた方がいい。で、来年勝って好きなことをすればいい」と、コーチ人事はフロントに委ねて続投要請を受けるよう諭していた。
その後どんな経緯を辿(たど)ったか知らないが、ともかく中畑さんは辞任した。スポーツ各紙は1面で大きく報じた。報知は裏取りに深夜までかかり記事化できたのは締め切り時間がもっとも遅い「最終版」のみだった。ミスターの自宅に届いた「9版」には「キヨシ辞任」の記事はない。翌早朝、ミスターから電話がかかってきた。
「ごめんごめん。
「いや、監督のご自宅に届いた新聞には出てませんが、なんとか格好はついています」
と説明したつもりだが、強い申し訳なさのせいなのか、ミスターの脳内では報知が「特落ち」したままになっていた。
「キヨシがオーナーのところへ(辞任報告に)行く前に俺ん家(ち)に来るから、そこでキヨシを説得する!」。中畑さんに対する慰留工作は、私たちの「特落ち」を帳消しにするという別の狙いも込められていた。
特段の成果も才能もないのにもかかわらず、ただ長く「ミスター番」だったというキャリアだけで、管理職の階段を上がることになった。過分な役職と能力値のギャップに苦しんでいると、不意に長嶋さんから電話をいただいた。「おい、大丈夫か? 報知の社長に俺から何か言ってやろうか?」
あつい信仰心も守るべき信条もついぞ持てなかった私にとって、長嶋さんは唯一の神にして絶対の正義だった。受話器から聞こえてくるのは紛れもない神の言葉だった。その深い優しさに何度も救われ、支えられた。これから何を信じ、どう生きればいいのか、しばらくは答えを見つけられそうにない。(2001~17年 長嶋番・山本 理)