元巨人の松井秀喜氏が4日早朝、ニューヨークから一時帰国した。肺炎のため3日午前6時39分に89歳で死去した巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さん=報知新聞社客員=の都内にある自宅を弔問。
松井氏は長嶋さんとの対面について「2人きりでずっといろんな思い出を呼び起こしながらずっと過ごしてました」と話した。「どのような言葉をかけたのか」の問いには「たくさんありすぎて、ね。いまここでは話しきれないくらい」とコメントしながらも「一番はもう感謝だけです」。「あの時、ドラフトの時ですね。私を見てくださった。うん。またそのスタートのことを思い浮かべて」と1992年11月21日、都内のホテルで開かれたドラフト会議で巨人、中日、阪神、ダイエーの4球団から1位指名された日のことを語った。長嶋さんについて改めて問われた松井さんは「一言でこういう存在でしたというのはちょっと難しいかなと思います」と複雑な胸中を明かした。
一番の思い出を聞かれると「一番は難しいですね」と即答。「いろいろな場面でその時その時の関係性があった」と長い時間を過ごしたことに触れ「ほんとに私は幸せものでね、いろんな時間を共有させてもらいました」と話し「素振りを通じて松井秀喜と言う野球選手の最も大切な部分を授けてくださった」と“恩師”に感謝した。
これからどのような意思を受け継いでいきたいか、という問いには「どういう形で、次の世代に継承していくかっていうことは、生前約束したこともあります」と松井氏。
石川・星稜高で高校通算60本塁打を記録した松井氏は、1992年のドラフトで4球団から1位指名された。巨人に復帰したばかりの長嶋監督が抽選で“当たりくじ”を引き当てて入団。その後は、長嶋監督による「4番1000日計画」に基づき猛練習を重ねた。時間や場所を選ばずに2人で素振りを中心に打撃の基礎を作り上げて、球界を代表する打者に成長した。
2002年オフ、松井氏はFA権を行使してヤンキースに入団。03年にはニューヨークを訪問した長嶋さんの滞在するマンハッタンのホテルの部屋に呼ばれて素振りをチェックしてもらったこともあった。13年にはそろって、国民栄誉賞を授与され、21年の東京五輪開会式(国立競技場)では、ソフトバンクの王貞治球団会長とともに3人で聖火ランナーを務めた。