3日に亡くなった長嶋茂雄さんは、千葉・佐倉一高(現佐倉高)で天賦の才の片りんを示し、立大で一気に開花させた。アマ時代の規格外のプレーの記憶を掘り起こす。

また、長嶋さんの立大入学に関わったのが当時の報知新聞記者・田中茂光氏(95)。田中氏が「立大・長嶋」誕生秘話を明かした。

 1936年、千葉県佐倉市生まれの長嶋は、戦後の「六三制、野球ばかりが上手くなり」と言われた世代。少年時代の憧れは、38インチ(97センチ)の長い“物干し竿”を振り回しショーマンシップ満点のタイガースの三塁手・藤村富美男だったという。佐倉一高(現佐倉高)に進むと1年生から遊撃のレギュラーを奪った。しかし、守備の不安定ぶりに3年生夏の大会直前に三塁コンバートされた。1953年、千葉県大会でベスト4に入ったため、当時は埼玉勢との南関東大会の出場権を得た。

 その1回戦で熊谷高と対戦。6回の第3打席に後に伝説になる県営大宮球場の中堅バックスクリーンにたたき込んだ。同球場の中堅は350フィート(約107メートル)だったものの、ボールも粗悪だった当時、誰もたたき込んだことのない場所に放り込んだことで一躍関係者の注目を集めるようになった。翌日の埼玉新聞は、1―4で敗れた佐倉一高の中で「ホームランを打った佐倉の長嶋は5尺8寸(約176センチ)余の堂々たる体躯(く)でその強打、好守は一際光っていた」と伝えている。

 大宮球場でのバックスクリーンへの一打で注目された長嶋にはプロのスカウトも注目していたが、立大に進学。

1年生時は控えだったが、2年生になると三塁の定位置をつかむ。大リーガーの練習を意識した猛特訓で鍛えてくれた砂押邦信監督のおかげか、春は1割7分に終わったが、秋に大きく成長した。

 初アーチは秋の開幕戦となった早大1回戦。同点で迎えた9回に早大のエース木村保からの左中間への決勝3ランだった。実はその試合の5回に放った右中間二塁打は、相手守備陣の隙を突いて二塁へヘッドスライディングしたプレー。178センチは当時としては大柄だったが、そんな男のスピーディーなプレーが六大学関係者の度肝を抜いた。

 このシーズン、本塁打は1本だけだったが、リーグ3位の打率3割4分3厘。二塁打3、三塁打2の長打を放ち12打点はリーグトップ。三振0という安定感でベストナインに初選出された。

 12月、フィリピンで開催された第2回アジア野球選手権大会の六大学選抜チーム入り。16人中、長嶋を始め投手の秋山登(明大)、木村保(早大)、杉浦忠(立大)がいきなり新人王。他にも中田昌宏、佐々木信也、衆樹資宏(以上慶大)、土井淳、近藤和彦(以上明大)、森徹(早大)がオールスター戦に選出された超豪華メンバー。

当時のプロ野球にそっくり入っても十分通用する選手がそろった。韓国、台湾、フィリピンと計4チームで2試合総当たりの計6試合に全勝。韓国との2回戦をサヨナラで振り切った以外はいずれも大勝で完全制覇。5戦目まで5番だった長嶋は最終戦で4番に座った。チーム3本塁打のうち1本を韓国戦で放ったが、ラサール球場の左翼席にたたき込む大アーチだった。長打合計6、安打11本はチーム最多で打率も4割5分8厘と打ちまくって自信をつけた。

 56年春は4割5分8厘で初の首位打者。14試合中13試合で安打を放ったが、早大1回戦に放った右中間三塁打でヘッドスライディングしたシーンは当時の新聞、野球雑誌で大きく取りあげられた名シーンだった。同年秋は打率2割8分8厘と低迷も、1938年春、早大・呉明捷に並ぶシーズン3本塁打をマークした。

 最上級生となった57年春法大2回戦で、バックスクリーン左横にたたき込んで通算7本塁打の連盟タイ記録を樹立したものの打率は2割2分5厘と低迷。それでも、華麗な守備面も評価されて8シーズンぶりの優勝に導き4年連続ベストナインに選ばれた。リーグ戦の不振のうっぷんを晴らすかのように、当時は8月に開催されていた全日本大学選手権、3試合で12打数6安打2打点と打ち込んでチームを4年ぶりの日本一に導いた。

 大学最終シーズンは、連盟新記録の8号がかかったためか開幕3試合連続ノーヒット。初安打が16打席目だったが、明大1回戦で自身初の5打数5安打してバットマンレースに参戦。明大に連敗して優勝争いも混沌(こんとん)としていたが、慶大2回戦の5回に念願の8号アーチを林薫投手から左翼席にたたき込んだ。88打席ぶりの一発でジャンプするような足取りでダイヤモンドを一周。この試合が大学生活最後の試合となっただけに「最後のチャンスを生かすことができた。私はラッキーボーイ。私はそれまで打席に立つごとに、1本のタイムリーが打ちたいという気持ちでしたが、7号を打ってからは、ホームランを打ちたいでした」。打席ごとにカメラのシャッター音も気になり、プレッシャーがあったことを明かした。8号本塁打の記録は、1967年法大・田淵幸一に破られる(最終的に22本)が、神宮球場がかつての両翼100メートルから90メートルに狭くなってからの記録である。また、最終打席に安打が出れば逆転首位打者、凡打なら2位だったが、見事に中前適時打を放って打率3割3分3厘で、六大学では戦後初の2度目の首位打者にも輝いた。新記録、首位打者、リーグ連覇を成し遂げた。

 ここで当時、辛口の評論が多かった事で知られる六大学が毎年発行している野球年鑑のシーズン事の総評を見てみよう。

優勝した57年春は「長嶋の偉才は、相手投手に対して脅威的の存在であり、打席につく度、敵陣を動揺させた。ことにその守備ぶりはますます冴えを見せてきた。(中略)ことに緩いゴロを前進して体勢の崩れたままプレーする上技にいたっては日本人中初めて現れた軽妙人神の業と言って良い。鶴岡一人(法大)、宇野光雄(慶大)、この2人が50年間に筆者の目に映った名三塁手ではあるが(中略)、宇野の楷書、鶴岡の草書に長嶋による力強い行書が加わって三体の大文字が見事にそろう」(原文まま)と評した。

 同年秋の総評では「優勝の原動力となった内野の堅陣。中でも俊敏な本屋敷遊撃手(錦吾、阪急入り)の動作、長嶋三塁手の胸のすくような鮮やかなプレー、(中略)など興味深いものがあった。本屋敷―長嶋の守備力の良さは神宮球場ではもうみられないだけに惜別の感が沸く」と卒業していく選手に別れの言葉をかけたのも特筆される。

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