6代目笑福亭枝鶴が9日、大阪・心斎橋角座で「芸歴五十年記念の会in心斎橋角座」(9月14日)のPR会見に出席した。
枝鶴は1975年の高校卒業と同時に5代目笑福亭枝鶴に入門。
5代目枝鶴は7代目松鶴の襲名を嘱望されたが、父の死のショックからか、一周忌記念落語会を無断欠席。松竹芸能を解雇、上方落語協会からも除名追放されていた。枝鶴は師匠について「ふらっといなくなった。05年くらいに会いまして『何でもいいから舞台に上がりたい』と。その前に借金含めて皆さんにおわびをして、お許しをいただいてからと言いましたが『もうええねん。とりあえず舞台に上がりたい』と…」と当時の様子を語った。
お世話になった人たちへ、不義理をわびることがなかった師匠に「3回目に消えた時に、どつこうと思った。うちの師匠はもうあかんなと思った」と正直な胸の内を明かした。死亡の知らせを受け、詳細を区役所に問い合わせたところ「生活保護を受けていたそうです。体の調子も悪く、病院も何か所か回っているうちに認知症の症状が出てきて、施設におったようです」と淡々と最後の様子を語った。
自身が受け継いだ枝鶴の名前については「僕が思っていたより大きいです。誰かにバトンタッチするまで持ったらいいという覚悟で名乗るような名前ではありません。
そこはしくじった」と苦笑い。松鶴の名前については「個人的には作るべきやと思っています。この先誰が継ぐか分かりませんが、ちょっと空きすぎた気がします。個人的には鶴瓶だと思いますが、ただ芸が足りない。個人的な意見ですけど」と話した。
50年を振り返り「回り道をしたと言われるかもしれないけど、僕は思っていない。