監督時代から闘病中まで“黒子”として支えた所憲佐(けんすけ)さん(73)。全3回の第2回は「勘ピューター」といわれた采配の真実を語った。
1993年の第2次政権下からサブマネジャー兼監督付としてサポートしてきた所さん。遠征先では部屋の片付けに追われ、早朝の散歩は常に同行した。
「そういえば、監督に褒められたことはないな。でも、怒られたことはたくさんあるよ。『もっとお客さんを大事にしろ。わざわざ遠い所から来てくれたんだから』とかね」
礼儀作法に厳しく、日々の会話から学ぶ部分も多かったという。所さんは日頃のお世話以外にも、大事な役割を任されていた。
「93年はまだブルペン捕手もやってたから大変だった。長嶋監督は投手コーチの言うことより、試合直前に先発投手の球を受けていた私の意見を求めた。ピッチングを受け終わると一目散に監督室までダッシュして『今日の調子はどうだ?』と聞かれる。『コントロールはいいですが、たまに抜けてます。
ミスターの視点は独特だった。キャンプ中のブルペンは特に、投手側からではなく、必ず捕手側から球を見た。打席にも入ったり、捕手の真後ろからも球筋をチェックした。
「審判みたいにすぐ後ろにいて、監督の吐息が耳に『ふう~、ふう~』ってかかるから、こっちが緊張しちゃう。『今日はスピンがかかってるなあ』とか『今のはいいフォークだ』なんてボソボソ言ってるんだけど、フォークじゃなくて実は直球だったりね。多分、打者目線で状態を判断しているのだろうと思った」
だから、いざ試合でも直前に受けたブルペン捕手の意見を尊重するという。
「報告にいくまではスコアラーが集めたデータをじっくり見て分析していた。第1次政権の時も王(貞治)さんの打撃練習を気にかけ、受けてる捕手に『右足の上げ方はどうだった?』『インコースはどんな感じで打ってた?』とか聞いていた。直前に感じたナマ情報を大事にしていたね。だから、よく采配を『勘ピューター』とかいわれてたけど、勘ではないと思ったね。
遠征先の部屋でも、スコアラーが作ったデータとにらめっこ。感じたことや攻略法がひらめけばノートに書き込んだ。
「監督は試合に出かける直前まで分析していて、そのデータ書類をベッドの上に置きっぱなしで出かけちゃう。俺がすぐ部屋に入って机の引き出しにしまうんだ。掃除のおばちゃんに見られたらまずいでしょ」
試合には常に準備万端で向かった。勝てば派手に喜び、負けた時は近くのバットを折ったり、イスを蹴飛ばして壊したり「怖い時もあったよ」と振り返る。
「負けてイライラしたままホテルの部屋に戻ると、長嶋さんは冷蔵庫の瓶ビールを取り出すんだ。で、ちょびっとだけ口を付けて終わり。で、お風呂に入る。上がってくると『お、どうした?』っていつもの陽気な監督に戻ってる。本当に切り替えが速い。アルコールは強くない、というか弱くて、すぐ顔が真っ赤になる。
長嶋さんは現役の時から負けることが一番嫌いだった。試合後10分で帰路に就くこともしばしば。監督就任後も同じように、負けることを嫌った。ユニホームを5階の部屋から外に投げ捨てたことも伝説として残る。ある時、ミスターは側近も驚く行動を見せる。(つづく)
◆所 憲佐(ところ・けんすけ)1951年7月11日、兵庫県生まれ。73歳。市川高から69年ドラフト13位で巨人入り。75年シーズンから選手登録したままブルペン捕手に。80年に現役引退。翌年から1軍サブマネジャー兼用具係に就任。その後、2002年からスカウト、ファンサービス部員を経て、球団総務人事部長嶋終身名誉監督付秘書。