「コブラ」の愛称で知られる殿堂入り外野手、デーブ・パーカー元外野手がパーキンソン病の闘病の末、28日(日本時間29日)、死去したと古巣のパイレーツが発表した。74歳だった。
1977、78年と2年連続首位打者。78年には、頬に死球を受け骨折し、球界では初めてフットボールのフェースガード付きのヘルメットで登場するなど話題に事欠かなかった。パイレーツを始め計6球団で、全盛期は右翼手、晩年はDHとして活躍した当時としては巨漢の196センチ、104キロ。右投げ左打ちで、球史の中でいつも語られるのが1979年、シアトルのキングドームで開催されたオールスター戦だ。「2番・右翼」で3打数1安打、犠飛で1打点を挙げただけだったが、終盤に強肩による2つのプレーで魅了した。7回は三塁打を狙った走者を、8回には右前安打で本塁を狙った走者を、それぞれ持ち前の強肩で刺し、ナ・リーグを勝利に導いて球宴史上初めて守備の活躍でMVPに輝いた。ナ・リーグを指揮したドジャースのラソーダ監督は「あんなプレーをやってのけるのだから、彼を最後まで起用していたんだ。延長20回までやっても引っ込めないよ」と、ヒーローを称えた。
同年、パイレーツはワールドシリーズに進出。殿堂入り一塁手ウィリー・スタージェルの活躍もあり、オリオールズ相手に1勝3敗から3連勝して8年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。1989年にはDHとしてアスレチックスでも世界一を経験したパーカーは、通算2466試合に出場、2712安打、339本塁打、打率2割9分で154盗塁。オールスター戦7度、ゴールドグラブ賞3度。
1979年に日本で行われた米米野球、すなわちア・リーグとナ・リーグの選手が戦ったシリーズに来日したパーカーは11月13日のナゴヤ球場で。5回に逆転3ランを右翼上段に叩き込み、6回には中堅フェンスまでの118メートルに加え、5・1メートルのバックスクリーンを越える特大2ランを放って日本のファンを驚かせた。「我ながらよく飛んだね」と試合後語っていた。
そんなパーカーがパーキンソン病を発症したのは2012年。最初は年に一度の身体検査で医師だけが気づいた変化だった。「私の手が少し震えていたので、彼(医師)はそれに気づいて『それはどれくらいからですか?』と聞いてきた。私は『約6週間』と答えた。すると彼は『あなたはパーキンソンを少し罹っているように見える』」と言った」という。その後、約13年間にわたって闘病生活を続けていたのだ。
全米野球記者協会での殿堂入りはならなかったが、昨年12月8日、1980年以前に野球界に貢献した人物を対象に、米野球殿堂選出を検討する「クラシックエラコミッティー」によって殿堂入りを果たしたのだった。殿堂入りの知らせを受けたパーカーは「この知らせを待ち続けていた。私は数分間だったが、泣いてしまった」と喜びを語っていた。
そんな彼が、7月27日にニューヨーク州クーパーズタウンで行われる野球殿堂のセレモニーまであと1か月に迫った時期に逝ってしまった。健在でも出席は危ぶまれていたのだったが、全米野球記者協会投票での殿堂入りを決めたイチロー氏らと並ぶ姿も見たかった。(蛭間豊章=ベースボール・アナリスト)