日本サッカー協会の元副会長で、1968年メキシコ五輪の銅メダル獲得に貢献した釜本邦茂氏が10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。
Jリーグは「通夜、告別式は近親の方々のみで執り行うご意向と伺っておりますため、詳細の公表は控えさせていただきます。お別れの会の実施については後日ご案内いたします」としている。
釜本氏は早大で4年連続の関東大学リーグ得点王を獲得。ヤンマーでは251試合出場で202得点を挙げた。得点王は7回、アシスト王も3回獲得し、年間優秀11人賞には14回輝いた。
日本代表でも長きにわたって活躍し、メキシコ五輪では7得点を挙げ、得点王に輝いた。国際Aマッチでは76試合に出場し、歴代最多の75得点をマークするなど、様々な前人未踏の功績を残した。
引退後はヤンマーや松下電器(G大阪)の監督を歴任し、98年にサッカー協会副会長就任。02年日韓W杯の組織委員会理事、強化推進本部長を務めた。
釜本さんの名声を一躍高めたのは68年のメキシコ市五輪だった。初戦のナイジェリア戦(3〇1)でハットトリックを達成するなど、6試合で7ゴールをマークし得点王を獲得。2―0で勝利し銅メダルを手にしたメキシコとの3位決定戦では、前半18分にFW杉山隆一のクロスを胸トラップし左足で先制のネットを揺らすと、同39分には速攻から右足ミドルを突き刺し追加点。
21年に行った本紙の取材で、当時を振り返った釜本さんは「我々は何とか予選突破しようと思っていた。先のことなんて考えてなくて、日本がメダルを取るなんて、自分たちも含めて誰も思ってなかった」と懐かしそうに回想した。大会直後には、ブラジルで開催された同代表と世界選抜チームによる親善試合への出場を打診されるなど、初めて世界が認めた日本人選手となった。
日本男子サッカーとしては唯一のメダリスト。日本人選手歴代最多となる国際Aマッチ75得点の記録とともに、今も偉業は語り継がれている。ただ、本人は複雑な胸の内を語っていた。「亡霊じゃないけど、いつまでもメキシコ五輪が…って言ってるのはね。もうそろそろ次のページに移らないと」。時には辛口に日本サッカー界を思う強い気持ちは、晩年まで変わることはなかった。
◆釜本 邦茂(かまもと・くにしげ)1944年4月15日、京都市生まれ。山城高、早大を経て67年にヤンマー入り。