日本サッカー協会の元副会長で、1968年メキシコ五輪の銅メダル獲得に貢献した釜本邦茂氏が10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。

元担当記者が悼む。

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 Jリーグ開幕2年目の1994年9月14日。ホームの万博記念競技場で行われた横浜M戦にPKで敗れた試合後、G大阪は2年間の成績不振を理由に釜本監督の解任を発表した。この日の昼過ぎ、試合へ向かう直前の釜本監督からこんなことを告げられた。

 「きょうの試合後に、フロントが俺の解任を発表する。だから、俺は今この瞬間に今季限りでの辞任を表明する。解任されるんじゃなくて辞任する。新聞にも辞任と書いてくれんか」

 解任だろうが辞任だろうが、監督の職から離れることに変わりはない。それでも自ら辞することに最後までこだわったのが、いかにも釜本さんらしかった。

 この日に至るまで、G大阪は水面下で釜本監督の解任計画を進め、フロント内で周知するため、わざわざ文書にしていた。「秘密」の判が押された問題の文書は、あろうことか当事者である釜本監督の手に渡る。この「釜本解任マル秘文書」によって、両者の関係は完全に決裂。

解任劇へとつながった。冒頭の試合後、社内のデスクには掛け合ったが、私が書いた原稿は辞任ではなく「解任」となった。

 日本サッカー界の至宝でありながら、当時のG大阪を運営していた電機メーカーと血相を変えた大げんかの末、華やかなJリーグの舞台から退場を余儀なくされた釜本さん。しかし、その翌年。1995年の参院選比例区に、自民党公認で出馬し初当選した。サッカー界から誰も予想しなかった政界へと活躍の場を広げる。

 「後藤くんに監督をクビにされたおかげで、今は国会議員をやらせてもらってます」と、照れたように微笑んだ表情が今も忘れられない。日本中を熱狂させた現役時代と比べれば不遇な指導者生活だったが、もめにもめての一発退場から一転して決めた政界入りの“ハットトリック”も、いかにも釜本さんらしかった。(初代ガンバ大阪担当 =後藤 吉希)

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