1968年メキシコ市五輪でアジア勢初の表彰台となる銅メダルを獲得したサッカー日本代表のエースで、同大会で得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去したと、Jリーグが発表した。81歳だった。

かねてから病気療養中だった。国際Aマッチ75ゴールは日本史上歴代最多。現役時代は日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマーでプレーし、引退後はG大阪などで監督を務めた。今なお記録と記憶に残り続ける偉大なストライカーの突然の別れとなった。

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 ストライカーとしての強い自負が込められた釜本さんの言葉がある。「FWはペナルティーエリアでパスしているようではダメ」「自分のゴールで勝つ、という強烈なものを持つFWが少ない」。7得点を挙げてメキシコ市五輪で世界に名をとどろかせた釜本さん。覚醒のきっかけは、その4年前に味わった屈辱にある。

 早大2年時、20歳で1964年の東京五輪を迎えた。活躍が期待されながら、ゴールは準々決勝敗退後に行われたユーゴスラビアとの順位決定戦(1●6)での1得点のみに終わった。「俺は三流だなと。一流になるのはどうすればいいか考え、とにかく点を入れる練習ばかりをした」。

FWの存在価値はゴールを奪い、チームを勝利に導くことにある―。「世界の釜本」が誕生する転機だった。

 以降、日本代表では、当時コーチを務め「日本サッカーの父」と呼ばれたドイツ人指導者デットマール・クラマー氏と連日のように居残りを行い、名コンビだった左ウィングの杉山隆一さんからのクロスを合わせる練習を200本以上こなしたという。メキシコ市五輪の3位決定戦、開催国メキシコから奪った釜本さんの2得点は、いずれも杉山さんからのアシストだった。歯を食いしばり、来る日も来る日も得点を決めるための練習を繰り返した結果、点取り屋へと飛躍した。

 ピッチ外でも貪欲だった。右利きで、右45度からのシュートを最も得意としていたが「左手を使えるようになれば、足も上手くなるのでは」と左手で箸を持ち、ビー玉や豆をつかむ動作を繰り返した。街に出たとき、人混みでは相手DFをかわす場面を思い浮かべながら、あえて人の流れに逆らって歩いた。「自分のポジションには何が必要か、24時間のなかで何をするかが大事だ」。勝つため、そして誰よりも得点することに執念を燃やした人生だった。

 

 ◆釜本 邦茂(かまもと・くにしげ)1944年4月15日、京都市生まれ。山城高、早大を経て67年にヤンマー入り。

78年から監督を兼任し84年に引退。19歳で日本代表入りし、国際Aマッチ通算76試合75得点。日本リーグ通算251試合202得点、得点王7回。年間最優秀選手賞7回。91~94年に松下電器(93年からG大阪)監督。95~2001年は参院議員を務めた。日本サッカー協会では副会長、強化推進本部長、常務理事を歴任。

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