1968年メキシコ市五輪でアジア勢初の表彰台となる銅メダル獲得に貢献したサッカー日本代表のエースで、同大会で得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。
かねて病気療養中だった。国際Aマッチ75ゴールは日本史上歴代最多。現役時代は日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマーでプレーし、引退後はG大阪などで監督を務めた。
JSLのヤンマーで13年半ともにプレーした堀井美晴さんが10日、本紙の取材に応じ、コメントした。
「『最近は誰とも会うのがおっくうや』と言って面会も断っていたような話も聞いていました。4、5年前に長浜のサッカーチームを教えていて、奈良の方にチームを連れて行ったときにたまたま隣のグラウンドで釜本さんがサッカースクールをやっていて会いました。釜本さんのすごさはシュートの精度、強さ。あとは精神力ですね。ストライカーとして自分のミスを気にしない。『俺が一番や』って強い気持ちで思っていた。そういうところはマネできない。たくましさがありましたね。
僕はヤンマーで13年半一緒にやっていました。試合の前泊の部屋も一緒なことが多かったですね。麻雀とかよく一緒にやったりしましたが、必ず午後10時半になると寝ていました。次の日の試合のためにやるべきことはしっかりやっていましたね。尼崎の練習場でも練習前と後の30分、僕らがセンタリングをあげて個人練習をやっていました。釜本さんは試合と同じようにトップスピードでゴール前に飛び込んでくる。それに合わせないとうるさく言われましたね。こういうボールを蹴れ、というような要求も多かった。すごくサッカーに関しては言い争ったりすることは多かったですね。当時は2人1組でやる練習が多かったですが、よく相手の癖を見抜いていました。ネルソン吉村の間とか、癖とか。それを踏まえた上でこういうボールを蹴れ、と要求していた。
得点王がかかっている時の試合とかはものすごく集中していた記憶がありますね。体格がとにかく良くて、筋トレをあまりやるなって(当時日本代表を指導していた)クラマーさんから言われていたみたいです。キレがなくなるって。寮にバーベルが置いてあったけど、持っているところを見たことがないです。もちろんサーキットトレーニングとかはやっていましたけどね。年齢を重ねるごとに若い選手ともよく話をするようにはなっていました。神戸で試合があるとその後に神戸でみんなで飲みにいく、というのが多かったですけど、釜本さんはほとんど来なかった。一線ひいていましたね。ヤンマーの監督になってからは選手を呼んだりして、自分から交流を持つようになっていました。身長は179センチありましたけど、昔の選手は175センチ以上あったらでかい、と言われていました。最近、車いすに乗っているって聞いた時はあんなに元気でタフな人が、って思いました。釜本さんがあの時、欧州のチームに行っていたらもっと日本のレベルが上がるのは早かったのでは。
ご冥福をお祈り申し上げます」
◆堀井 美晴(ほりい・よしはる)1953年3月16日生まれ、72歳。静岡県藤枝市出身。藤枝東高から71年にヤンマー入社。JSL1部204試合46得点。現役引退後はヤンマー、G大阪のコーチをへて01年に川崎監督に就任。04年に磐田のヘッドコーチを務めるなどした。