1968年メキシコ市五輪でアジア勢初の表彰台となる銅メダルを獲得したサッカー日本代表のエースで、同大会で得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去したと、Jリーグが発表した。81歳だった。
今なお記録と記憶に残り続ける不世出のストライカーとの別れに、日本代表では釜本さんに次ぐ歴代2位の55ゴールを挙げているアトレチコ鈴鹿FW三浦知良(58)が、クラブを通じてコメントを寄せた。
「具合が悪いとお聞きしており、ずっと心配していたのですが、訃報に接しまして本当に残念です。釜本さんは40歳までプレーされた。あの当時、その年齢までプレーされた選手はほとんどいなかったはずです。ブラジルのサントスの下部組織でプレーしていた40年近く前のこと。コーチからロッカールームに呼ばれると、シャワーを浴び終えたばかりのペレがいました。『サントスで頑張っている日本のカズだ』とコーチが引き合わせてくれました。するとペレが言いました。『お前、カマモトを知っているか? 俺の友人なんだ。
「国際Aマッチとしての代表チーム同士の対戦が限られていた時代に、日本代表で75得点。クラブチームとの対戦でのゴールも含めたら200ゴール近くまで到達していたんじゃないですか。ウソか誠か、50年近く前の当時にイングランドのアーセナルからオファーがあったとも聞きました。そのくらいガマさんの名前は世界にとどろいていました。どの時代でも、評論家の方々から、日本代表は『釜本のようなセンターフォワードがいればもっと強いのに』と、ことあるごとに言われ続けてきたような気がします。時が流れてもそのすごさは、薄れることなく受け継がれていました」
「僕が34歳のころ、京都サンガでの練習試合を見に来てくださいました。『俺は40歳間近のころは怪我でほとんど試合に出られなかったけれど、カズは40歳までしっかりやりきれよ。もう一回代表にいけ』と叱咤していただきました。58歳までやってしまっていますけれどね。ことあるごとに気にかけてくださって、フォワードとして点を取る孤独さを理解してくださっているんだなと、勝手に喜んでいました。目標とするには遠すぎる方でした。