負けても負けても走り続け、「負け組の星」と呼ばれ、社会現象を巻き起こしたハルウララ(牝29歳)が9月9日未明、疝痛(せんつう)のため、余生を過ごしていた千葉・御宿町のマーサファームで死んだ。17年3月28日から4月1日に掲載した連載を再掲する(肩書、年齢等は当時)。
負けても負けても走り続け、“負け組の星”と呼ばれた一頭の牝(ひん)馬が、日本全国で空前の大フィーバーを巻き起こした。デビュー以来、一度も勝ったことがない高知競馬のハルウララに武豊が騎乗した2004年3月22日の106戦目は馬券が全国発売され、人々が熱狂した。ブームの裏側には、廃止寸前だった地方の競馬場で生き残りを懸けて戦った人々がいた。(特別取材班)
◆04年3月22日 武豊が騎乗
のちに無敗の3冠馬となるディープインパクトが騎手の武豊とのコンビで04年12月にデビューした。その9か月前の3月22日、高知競馬場。デビューから105戦して一度も勝ったことのない8歳牝馬の背中に、名手はいた。
その名はハルウララ。420キロ前後の小柄な馬体で、負けても負けても走り続けることが話題になったアイドルホース目当てに、全国から応援ツアーが組まれ、競馬場に観客が押し寄せた。発走2時間前に1万3000人を数え、初めての入場規制。入りきれないファンは近くの陸上競技場でスクリーン観戦しながら応援した。重賞でもない下級条件レースの馬券が全国で発売され、地元テレビ局は特別番組を編成。東京のラジオ局が実況中継し、関西のテレビ局は生中継した。
高知10R「YSダービージョッキー特別」(ダート1300メートル)。夢タッグが実現し、全国の期待と単勝1番人気を背負った“最弱ヒロイン”は、11頭立ての後方を追走。武豊が3コーナー手前から手綱をしごくが、先頭にははるか届かない。大歓声と拍手を浴びたブービーの10着に、名手は「どうすることもできなかった。でも、全然ダメじゃない。ちょっと走らないだけ。競馬を知らない人をこれだけ引き寄せた。ある意味では名馬です」。
同時刻、国会内で開かれた自民党役員会の冒頭。首相の小泉純一郎は、周囲に「ハルウララはどうなった?」。
5日後、27日の米ワシントン・ポスト紙は1面でレースと日本の熱狂ぶりを写真付きで報じた。「世界で最も厳しい競争社会」の日本で、負け続けるハルウララは「日本のGanbare(頑張れ)文化そのものだ」と、ブームが日本中に広がった様子を紹介した。
あれから13年。武豊が言う。「勝っちゃったらどうなるかなと思って乗ったけど、やっぱりボロ負けだった。勝たなくて人気になるのは不思議だけど、話題を集めるのは才能の一つ。あれだけ走って負けるのは逆に難しいと思うんだけど…。競馬を知らない人でもオグリキャップ、ディープインパクト、ハルウララは知っている。勝てなくても一生懸命走る姿が共感を呼んだんじゃないかな」
考えられないようなブームが生まれた背景には、ハルウララが走る高知競馬の苦しい台所事情があった。=敬称略=
◇高知競馬のハルウララ 父ニッポーテイオー、母ヒロイン(父ラッキーソブリン)。