負けても負けても走り続け、「負け組の星」と呼ばれ、社会現象を巻き起こしたハルウララ(牝29歳)が9月9日未明、疝痛(せんつう)のため、余生を過ごしていた千葉・御宿町のマーサファームで死んだ。17年3月28日から4月1日に掲載した連載を再掲する(肩書、年齢等は当時)。

 2003年12月14日の100戦目の報道に加え、5日後にNHKが「にんげんドキュメント 日々これ連敗~競走馬ハルウララ~」で特集すると、ファンレターが急増。全国から届いたニンジンが宗石厩舎に山積みになった。

 闘病中、リストラされた会社員、不登校の生徒も。ある女性は「私も71年間生きてきて一度も1番になったことがありません。ハルウララが一生懸命走っているのを見て、私も残り少ない人生を一生懸命に走らなくてはと、涙が出ました」とつづった。

 みんなの声援うけながら いつかは1着夢に見て 私は「懸命」走ります(「ハルウララの詩」)

 04年1月下旬に、武豊騎乗の報道。3月22日は交流重賞・黒船賞に騎乗するJRA騎手が騎乗可能になる。2月初旬には、そのレースが各地の地方競馬場でも“全国発売”されると報じられた。8回線ある事務局の電話はパンクした。「1時間に1本やったのが、1分に1本どころじゃなかった」。02年高知国体で会場計画に携わった班長の山中雅也は、競馬場内外の図面とにらめっこし、計画を練った。

 「ハルウララにすがるしかない。

みんな同じ方向見てるからパワーが生まれた」と広報の吉田昌史。職員20人は寝る間も惜しんで働き続けた。組合トップの前田英博が言った。「人間というのは苦しみの中だけでは前を向けない。でも、ハルウララによってお客さんが来てくれたことが、みんなの明るい希望になった」

 3月22日、高知競馬場。8か所設けたウララ馬券専用窓口は開門直後から長蛇の列で最大4時間待ちの混雑ぶり。各地の地方競馬場と場外発売所でも通常の3~8倍の観客が殺到した。「単勝って何?」と聞く女性など多くが競馬初心者だった。最終10Rへボルテージは高まっていく。

 16時35分、106戦目のゲートが開いた。ハルウララは11頭立ての後方から。不良馬場で飛び散る泥をまともに浴びる。

単勝1・8倍の圧倒的1番人気を背負いながら、見せ場なくゴール。先頭から11馬身離れた10着にため息がもれたが、拍手の音が大きくなっていく。走り終えたはずのハルウララが武豊に導かれ、“ウィニングラン”。名手の粋な計らいに、この日一番の大歓声。声も出せず、両手で顔を覆う女性もいた。

 会見が行われた事務局2階の会議室は取材陣があふれた。熱のこもった部屋に響くおびただしいシャッター音。「ダービーを勝っても、こんなにフラッシュを浴びない」と苦笑した武豊騎乗の全国発売の効果は絶大だった。そのレースだけで5億円超え。ウララ出走時でさえ7000万円台だった1日の総売り上げは約8億6900万円で、過去最高の約4億5900万円を上回るレコード。03年度収支は12年ぶりの黒字となる約9200万円を計上し、高知競馬は廃止のピンチを免れた。=敬称略=

 ◇売り上げデータ 3月22日の高知競馬の1日の総売り上げは8億6904万2500円。

ハルウララが出走した10Rだけで5億1162万5900円(場内・5606万8000円、場外・4億5555万7900円)と6割近くを稼いだ。10Rの単勝総売り上げは2億8631万6700円で、うちハルウララが1億2175万1200円。この日の黒船賞が2億2324万9900万円だけに破格。

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