負けても負けても走り続け、「負け組の星」と呼ばれて大フィーバーとなったハルウララの死を、現役時代に管理した高知競馬の宗石大調教師(74)が10日、悼んだ。04年8月3日のレースを最後に113戦0勝で引退した同馬は、余生を過ごしていた千葉・御宿町のマーサファームで9日午前2時20分、疝痛(せんつう)のため、29歳で息を引き取った。

 「あの馬は幸運な馬でしたわね」。ハルウララは、余生を見守る趣旨に賛同した支援団体「春うららの会」会員の会費を預託料に、ファンに支えられ、太平洋に面する房総半島ののどかな牧場で過ごしていた。

 98年11月のデビューから現役引退までハルウララを管理した宗石調教師は「一回も会いに行ってなかったから、今年引退したら一回会いに行こうと思っとったんです。残念ですわ」と明かした。高知競馬の元1000勝ジョッキーで、調教師として521勝を挙げる宗石師は、年度末の来年3月の定年引退を待たず、管理馬の新たな預託先を探すなど引退準備を進めているさなかの悲報だった。

 「今の競馬があるのは、ハルウララがいたからかもしれないですね」。高知競馬は02年度末、累積赤字88億円を抱え、県と市が負債を負う代わりに、新たな赤字を出さないことが存続の条件とされ、03年度を迎えていた。「みんな苦しかったんでね。僕ら、あしたのご飯代もなかった」

 そんななかの03年6月、88連敗中だったハルウララの存在が全国メディアで取り上げられ、状況は激変。420キロ前後の小柄な牝馬が走るたび、フィーバーは加速し、武豊とのコンビが決まった04年3月22日の106戦目は、馬券が全国発売され、応援ツアーまで組まれた。宗石師は「ほかの馬じゃない。みんなハルウララを見に来る。

出走しないわけにいかないから心労はきつかったですわ」と振り返った。

 小さな競馬場に1万3000人が殺到し、初の入場制限をかけた当日は、ブービーの10着に敗れた出走レースだけで売り上げは5億円超え。ウララ出走時でさえ、7000万円台だった一日総売り上げは約8億6900万円で、03年度の収支は12年ぶり黒字の約9200万円を計上し、廃止の危機を免れた。「当時、ハルウララがいたから今の高知競馬があると副知事さんにも言われました」。その後、09年度にナイター導入、インターネット投票の普及と合わせ、高知競馬は復活した。

 どん底から隆盛にいたる激動の時代のまっただ中を過ごした宗石師は、希代のアイドルホースについて、「口では表せられないですね。こういった経験をした調教師は私ぐらいだと思う。有名になって、でも、いいことばかりでもなかったけど、僕自身、無事に引退を迎えられるのは、ハルウララの貢献があったからと思っとるから」と、高知競馬を救った最も有名な未勝利馬への感謝を口にした。

 ◇疝痛 馬の腹痛の総称。

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