空手家・佐竹雅昭(60)が今年、格闘家人生45年を迎えた。空手家を志し15歳で「正道会館」に入門。

ヘビー級の空手家として異種格闘技のキックボクシングに挑戦。その実力と開拓魂、さらには明るいキャラクターで一般大衆にもアピール。それまで格闘技の興行は「入らない」が定説だったが、佐竹の存在が常識を覆し1990年代に立ち技系格闘技イベント「K―1」を生み出し人気は沸騰した。今年は佐竹がキックに初挑戦した1990年6月30日に日本武道館で闘ったドン・中矢ニールセン戦から35年。スポーツ報知は格闘技界に絶大な貢献を果たした佐竹を取材し、現在の格闘技人気につながるニールセンとの歴史的な一戦をはじめ空手家人生を代表する「十番勝負」を連載する。一番勝負はニールセン戦(後編)。

 1990年6月30日、日本武道館。リング上でドン・中矢ニールセンと対峙した佐竹は、敵のにやけた表情に高ぶりが頂点に達した。ゴングが鳴った。緊張のリング。ニールセンの蹴りが金的にあたった。

 「あれは、故意ではなかったと思います。

だけど、リング上で興奮が頂点に達している自分には偶然だろうが、故意だろうが、反則なわけですから。闘志が沸点を超えて緊張がなくなりました」

 解き放たれた佐竹はケンカを敢行する。試合前、尊敬する中山猛夫師範から指示された「パチキ」を実行したのだ。敵をロープに詰めた時、一発入れた。レフェリーが減点1を通告した。

 「そのとき、これが今振り返っても不思議なんですけど、すべての時間が止まった感覚が起きたんです。お客さんの声も聞こえなくなって何もかもが止まった時にニールセンの顔が僕の目の前にあったんです」

 サウスポー構えだった佐竹は、敵の顔を確認した時にこう思った。

 「右ストレートを入れたら当たる」

 そして右を突き刺した。

 「まるでその時は動きがコマ送りのようになってすべてが鮮明に見えたんです。自分の右腕がゆっくり伸びて、拳が顔面に当たる感触があった瞬間、ニールセンが倒れていった」

 それがニールセンをKOした瞬間だった。タイムは1回2分07秒。佐竹は人生をかけた闘いを制した。

 「あんな恐怖を抱いた試合は、空手家人生の中で最初で最後です。言ってみればあり得ないことが起きた奇跡の試合でした」

 佐竹の「頭突き」を巡ってニールセン陣営が反則を主張しKOの無効を要求を行なった。主催した全日本キックはレフェリーが注意、減点をしており不問に付した。この頭突きは当時、そして現在に至るまで格闘技マスコミ、ファンの間では批判が出ている。

 「まず、僕の考えでは、格闘技はスポーツの試合じゃなくてケンカだと思っています。あの武道館で僕はニールセンと果たし合いをしたんです。だからスポーツ的には頭突きは反則ですが果たし合いに反則はないと今でも思っています」

 勝者だけが生き残る過酷なリング。佐竹は批判が起きようが物議を醸し出そうが自らの拳でKOという結果を残し人生を切り開いた。そして、この試合で「佐竹雅昭」という待望のヘビー級日本人戦士が誕生し93年に「K―1」が誕生する礎となった。歴史に「もし」は禁物だが佐竹がニールセンに負けていれば「K―1」もなく、その後の格闘技界も違った形になっていただろう。

 ニールセンを突破した佐竹が次に「記憶に残る」一戦を明かしてくれた。

(続く・取材・書き手 福留 崇広)

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