1971年にデビューした歌手の野口五郎(69)は今年、歌手生活55年目を迎えた。西城秀樹さん(2018年死去、享年63)、郷ひろみ(69)とともに「新御三家」と呼ばれ、日本のアイドル史を彩ってきた野口は節目を迎え、すべての経験が自分自身を作ってきたと考えている。

音楽にどっぷりと漬かってきた経験から「音」の研究者としても活躍しているが、55年から56(ゴロー)年に差し掛かろうとする今、胸に去来するのは「人の役に立ちたい」というシンプルな感情だった。(宮路 美穂)

 野口は現在、55周年ツアーの真っ最中。ツアーのタイトルには「通り過ぎたものたち」という冠をつけた。1976年、兄で作曲家の佐藤寛さんと作ったアルバムのタイトル。「その頃は海外のレコーディングが真っ盛りで、思いっきり洋楽かぶれをしていた。ふるさとの郷愁を感じて作ったアルバムだった。そこから半世紀。今年2月に母親が旅立ったんですが、昨年から母との時間を過ごすうちにいろんなことを思い出すようになった。いろんな人、いろんなモノ、いろんな景色が、僕の周りを通り過ぎていったのだと…」

 「新御三家」の一人として、日本のアイドル史の礎となった野口。少年時代は「歌が好きだったのが先なのか、生まれたのが先なのか覚えていないぐらい」と音楽が身近にある環境で育った。「裕福な家庭ではなかったので、のど自慢のコンクールに出て、その賞金でアンプやギターを買ったりしていました」

 デビューは演歌だった。当時の芸能界は、作曲家の門下生としてレッスンし、デビューを待つのが王道ルート。

「僕は『リンゴ追分』の米山正夫先生の門下生にしてもらったんだけど、上京してすぐ変声期になって『少し休んでいなさい』と。クビになったと思って田舎に帰ることもできないな、と思った時、下宿先の大家さんのおじさんが演歌の先生を紹介してくれた。ただ席が一個、演歌の世界に空いた。好きとか嫌いとか関係なく、道がそこしかなかったから行ったんです」

 デビュー曲の「博多みれん」は、ヒットに恵まれなかった。「演歌だけでは食べていけないから『セブンティーン』とか『少女フレンド』のモデルのバイトをやったんですよ。メインの麻丘めぐみちゃんとかの彼氏役として横顔や後ろ姿で登場する。そうしたら雑誌社にファンレターが届くようになったので、ポップスに変えよう、と。筒美京平先生の『青いリンゴ』を出してポップスに進んでいきました」

 20年に死去した筒美さんとの間には、作曲家と歌手という関係性を超えた厚い信頼があった。「今考えると大先生なんですけど、本当に友達みたいにさせていただいた。持ってる輸入版のレコードの話で盛り上がったり…」。74年後半から75年にかけて発表された「甘い生活」「私鉄沿線」「哀しみの終るとき」の「別れ三部作」も、共同作業のひとつ。「京平先生と兄貴と(作詞の)山上路夫先生と、レコード会社の人と『ストーリー性のある三部作を作ろう』と。

恋愛の始まりから描くんじゃなくて別れから始まるのが面白いね、となった」

 筒美さんが1曲目の「甘い生活」の作曲を担当。「私鉄沿線」は兄の寛さんが作曲し、筒美さんが編曲に入った。「何十年もたってからですけど、京平先生と食事をしている時『五郎ちゃん、僕は私鉄沿線のアレンジが一番うまくいった』と教えてくれた。聴き直してみると、トロンボーンの音はクラクションなんだ、とか。不安定な楽器を使って始まるイントロは遮断器がかかる音だったんだ、とか。『僕の街でもう一度』のところに挟むシンコペーションは自分の焦る思いだったんだ、とか…」。時を超えて渡されたメッセージに胸が熱くなった。

 「京平先生は絶対褒めてくれない。レコーディングの時も『五郎ちゃんがいいならいいんじゃない?』って、譜面もコードだけで『好きにやって。何回録(と)る?』って」と。目に見えない絆で結ばれていた。「先生が亡くなる8年くらい前に僕に曲を書いてくれて、その時もらった手紙が僕に対しての遺言だと思っている。

先生が亡くなった時、その手紙の存在は誰にも言わなかった。内容は僕だけが知っていればいい。同じ時代を生きてきたっていうのは、この手紙が分かってくれている」

 ともに「時代」を生きたという意味では、新御三家の仲間も特別だ。先にデビューした野口は、何者でもない少年たちが時代のカリスマになっていく姿を目の当たりにしてきた。「僕がデビューした頃は『スター世代』だったんです。テレビの最盛期で、ブラウン管のスイッチを入れたら夢の宝石箱。そこに出る人は手の届かない存在だった。『スター』ではなく『アイドル』という概念を本当の意味で作ったのは秀樹やひろみなんです」

 スター世代の一番最後、そしてアイドル世代の一番先頭に野口は存在しており、2つの世代の橋渡し役でもあった。「偉そうに聞こえるかもしれないけど、秀樹やひろみをプロの世界に引っ張り込まなきゃいけないんだっていう勝手な使命感みたいなのがあった」

 秀樹さんとは、同僚やライバルという言葉では言い尽くせないほどの関係性だ。「すごく僕のことを認めてくれていた。そんな秀樹のことを僕も好きだった」。心残りもある。

「もちろん僕たちは個人で頑張ってきたけど、新御三家っていうものは何かしら時代の流れが作ったもの。時代を作るって、今考えてみるとすごいなって思うんです。秀樹が亡くなる前に一緒に3人でコンサートがやりたかったですね…」

 来年は古希を迎え、5月からはデビュー56年目に入る。「56(ゴロー)」の語呂合わせを大切にしてきた野口にとって、特別な一年になる。「誰にも55周年はあるけれど、56周年は僕しかない(笑)。もうこの年になってきちゃうと、自分の中で心の断捨離ができるようになって。今の時点で、『これはもういいや』って思うことを自分の中で計算していくと、単純に『人のためになりたい』という思いがすごく強くなってきているのを感じます」

 音に携わってきた自分自身だからこそできること。歌手活動以外にも「深層振動=DMV(Deep Micro Vibrotactile)」の研究者という顔を持っており、取得した特許は20以上もある。「DMV」は、自然界に確かに存在する微細な低周波音。健康への効果にも着目し、野口は3つの大学と協力し合いながら臨床実験を続けている。

 「音楽がデジタルのゼロイチの世界になって『情報』になってしまった。感情や思いは、ゼロとイチの間にある部分のアンビエンスや倍音とかに乗っかっている。

今は人に分かってもらえなくても、近い将来、それが表に出れば。お金にならないけど、僕はそういう未来が見たいし、そうやって人の役に立ちたい。それが来年くらいからできたらいいなと思っています」

 「音」に育てられてきた男が、「音」を還元する。55周年から56周年にかけての野口の挑戦は、きっと未来の誰かの心を豊かにするはずだ。

 ◆野口 五郎(のぐち・ごろう)本名・佐藤靖。1956年2月23日、岐阜・美濃市生まれ。69歳。芸名は飛騨山脈の野口五郎岳に由来。1971年5月、「博多みれん/ひとり雨」でデビュー。ポップス歌手へ転向したセカンドシングル「青いリンゴ」がヒットし、75年の「私鉄沿線」が日本有線大賞グランプリ。NHK紅白歌合戦には通算11回出場。ギターのインストゥルメンタル(器楽曲)アルバムを出すなど、ギタリストとしても高い評価を得ている。

妻はタレントの三井ゆり

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