TBSラジオで毎週土曜日、午後1時から放送している「久米宏 ラジオなんですけど」。

11月23日(土)放送のゲストコーナー「今週のスポットライト」では、ジャーナリストのマヤ・ムーアさんをお迎えしました。

マヤさんはアメリカ人ですが、生まれは東京。父は戦後テレビの英語講座で活躍したウィリアム・L・ムーアさん。マヤさんは大学卒業後、ロンドンの日本大使館で文化担当官補佐として働き、1987年からNHK衛星放送の『ワールドニュース』(1987年~91年)、『ウィークエンド・パリ』、『アジア・ナウ』(1992年~98年)でレポーターやキャスターを務めました。

現在はナレーションや司会などの仕事のほか、アメリカンスクール・イン・ジャパンと岩手県大船渡市の小学校を結ぶスカイプバーチャル英語教室に力を注いでいます。

マヤさんは今年2月、『失われた福島のバラ園』(世界文化社)というフォトエッセイを出版しました。これは多くのバラの写真愛好家に愛されながら福島第1原発事故で閉鎖を余儀なくされた「双葉ばら園」を紹介した本です。日本語版に先立って英語版(2014年)と韓国語版(2019年)も出版され、大変多くの反響を呼んでいます。

年間5万人が訪れた双葉ばら園

失われた福島の「バラ園」マヤ・ムーアさん(ジャーナリスト)の画像はこちら >>

「今日ご紹介するのは写真集、フォトエッセイという言い方をしていますけど、ぼくは物語だと思うんです。ぼくは福島県の双葉町というところに日本全国から大勢の人が見に来るような有名なバラ園があるということを、この写真集を拝見するまでまったく知らなかったんです」(久米さん)

「私も、皮肉なことに震災がなかったらこのバラ園のことは知らなかったということになります」(マヤさん)

「双葉ばら園」は東京電力福島第1原発から8キロ離れた場所にあった広大なバラ園。個人経営ながらおよそ750種類7500株のバラが咲き誇り、バラ愛好家やアマチュアカメラマンたちが毎年5万人以上も訪れる観光地でした。

オーナーの岡田勝秀さん(76歳)は父が経営する桃園や鶏舎を手伝っていた17歳のときにバラの栽培を始めました。バラに恋をしたといってもいいほど夢中になりました。

当時は太平洋戦争の敗戦から16年。都会は高度経済成長で活気づいていましたが、福島の浜通り(海岸地域)は貧しい農家が多く、人々はまだまだその日の暮らしを維持することに必死でした。そんな時代、バラは裕福な西洋かぶれの人間のお遊びと見られました。それでも岡田さんは独学でバラ栽培を続け、1968年、ついに「双葉ばら園」をオープンしました。

その双葉ばら園とほぼ同時期に発展したのが、福島第1原発です。1967年から建設工事が始まった原発は、貧しい福島に新しいエネルギーと雇用を生み出す希望の象徴でした。そういうものこそが「本物の仕事」だと言われました。それに引き換え、バラ園なんてまともな商売じゃない。そういう声も岡田さんの耳には入ってきました。

でも、岡田さんのバラ園には日本各地からたくさんの人々が訪れるようになりました。双葉ばら園は原発とともに双葉町の名所になりました。岡田さんが17歳で栽培を始めてから50年が経った2011年、双葉ばら園が国際的に認められる機会を得ます。

「世界バラ会連合」の代表者およそ100人が園にやってくることになったのです。世界トップクラスのバラ園芸家たちに、自分が数十年かけて作ってきた庭園を評価してもらえる。岡田さんはこの上ない喜びを感じながら、約束の5月を待っていました。

そして、「あの日」を迎えたのです。

バラ園の写真で福島の問題を発信

失われた福島の「バラ園」マヤ・ムーアさん(ジャーナリスト)

マヤさんが「双葉ばら園」を知ったのは震災から1年後の2012年2月。たまたま早朝のニュース番組を見ていたら、バラ園の写真展を伝えていました。双葉ばら園の花を長年にわたって撮影していた「横浜ばら写真の会」の人たちの写真展でした。マヤさんはこのバラ園の写真を通して福島の問題を伝えられると確信したそうです。

「震災のときには外国の人たちに本当にたくさんの寄付をいただきました。それは津波の辛い映像を見ていろんな人たちが動いたんですよね。でも福島の原発事故はどうやって伝えたらいいのか。放射線の影響は目に見えないから。

原発の建屋がボンと爆発した映像はすぐに流れなくなりましたし。そしたら、たまたまこのバラ園の話に出会って、これなら原発の怖ろしさがどういうものかビジュアル的に絶対伝わると思ったんです。この本には原発事故のビフォーとアフターのバラ園の写真が載っています。私としては、被災した福島の人たちと被災した日本を、このバラに代表してほしかったんです。その苦しさを、きれいなバラたちを通して伝えたかったんです」(マヤさん)

「これはストーリーが素晴らしくて、ストーリーの中に写真があると言ってもいいぐらいの本なんですけど…」(久米さん)

「というか、写真の中にストーリーがあるんです」(マヤさん)

ダイアナ妃が夢に現れて…

失われた福島の「バラ園」マヤ・ムーアさん(ジャーナリスト)

原発事故後、茨城県に転居した岡田勝秀さんは、福島から来たことやバラ園を営んでいたことは語らずに暮らしていました。マヤさんが岡田さんのもとを訪ねたときは、裏庭は伸びた雑草で荒れ放題。岡田さんは「もう植物は育てない」と心を閉ざしていました。

マヤさんが双葉ばら園の本を出したいと切り出すと、岡田さんの奥さんからは「主人を猿回しのサルにはしないでくださいね」と辛辣な言葉。もちろんそんなつもりはなかったマヤさんは、これで覚悟が決まりました。

双葉ばら園の誕生から原発事故までのストーリーを紹介する文章を書き、「横浜ばら写真の会」が撮りためた数千枚の写真の中から150枚を選び、半年で本の構成を完成させました。ところが、これを出版してくれる会社が1年以上見つかりませんでした。もう諦めようと何度も思いましたが、そのたびにバラに背中を押されるような不思議な出来事があり、奮起したそうです。

「わたしがいちばん気持ちを入れているのは55ページの左側にある『プリンセスダイアナ』(ダイアナプリンセスオブウェールズ)なんです。出版社がなかなか見つからないときに、ダイアナ妃の夢を見たんですよ。私はロンドンの日本大使館時代にレセプションなどで彼女に何回か会っているんですね。彼女が夢に出てきて、私の腕を取って『I'll support you』(あなたのことを応援するわ)って。そういう夢を見たんです。その2週間後に出版社(世界文化社)が見つかったんです」(マヤさん)

もう一度バラ園を作りたい

失われた福島の「バラ園」マヤ・ムーアさん(ジャーナリスト)

双葉ばら園の岡田勝秀さんは、現在も東電との裁判を続けています。長年、手塩にかけてかけて育てたバラや、風景式庭園を構成する桜やヒマラヤスギは、裁判ではすべてただの立木とされました。バラ園の価値をまったく認めていない形です。

「取り返しのつかない原発事故。広島・長崎・福島を経験した日本は、何度同じことを繰り返すの?」と、マヤさんは言います。

それでも希望も見え始めました。当初「もう植物は育てたくない」と言っていた岡田さんが、これまで開かれた写真展や今回の本の出版などを経て、「もう一度、バラを育ててみたい。

またどこかで必ずバラ園を作る」という気持ちになっているそうです。

マヤ・ムーアさんのご感想

失われた福島の「バラ園」マヤ・ムーアさん(ジャーナリスト)

もっとお話したいなあって感じはしましたねえ。久米さんが本をとっても読み込んでくださったのと、前日に岡田勝秀さんと私が記者会見したのをごらんになっていたんだなということがすごく伝わってきました。だからもう私が言うことがないなと思って(笑)。

でも、さすがですね。情報をインプットして、消化して、ぱっと出せるプロ魂を見せていただきました。何を言ってもいいんだろうなという雰囲気を出してくれたので、こちらも話しやすかったです。

バラの花びらの写真の話は、ラジオを聴いている方は見えないから大変だろうなと思いつつ、ぜひ手に取ってみたいと思ってくださったらいいなと思います。

堀井さんも私の隣りでたくさん相槌を打ったり反応してくれて、その存在がとても気持ちよかったです。彼女がいなかったら怖かったかも。久米さんお手柔らかに…ってみたいな(笑)。

実は福島県の小中学校・高校・大学の全校、それと図書館に、本を1冊ずつ寄付する予定です。

いまその交渉に入っているんです。福島の人たちがこの本を見ながら「懐かしいよね、双葉ばら園によく行ったよね」って、福島の話ができたらいいなと思っています。結局、原発事故の損害賠償金を誰がもらって、誰がもらっていないかで、福島の人たちがばらばらなんです。福島の人たちは自分たちの苦労話をすることができないんです、福島人同士で。ですから「お互い辛かったよね」って話すきっかけになればと思っています。ありがとうございました。

◆3月7日放送分より 番組名:「久米宏 ラジオなんですけど」
◆http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20200307130000

編集部おすすめ