ファッションデザイナー:コシノジュンコが、それぞれのジャンルのトップランナーをゲストに迎え、人と人の繋がりや、出会いと共感を発見する番組。
田村能里子さん
1944年、愛知県生まれ。
出水:小さい頃はどんなお嬢さんだったんですか?
田村:お嬢さんなんて(笑)戦後の大変な時期でしたから、疎開をしていました。小学校2年生の時に名古屋に引っ越しまして、うちの前に住んでいた先生がベレー帽をかぶっていかにも絵描きさんという感じで、もう片方にはお花を携えて、土曜日になるとどこか街の方に行かれるんです。その後ろ姿がどこかホッとするというか、「いいなぁ~」って。
JK:子どもの時の影響って大きいですね! その姿が素敵だったのね。
田村:それで先生のところに1週間に1ぺん、お稽古に通うようになって。
JK:私もそういう画家の先生のところに通って、ずーっと油絵描いてたの。それで高校の時に美術部に入って、展覧会に行って。
出水:その後本格的に絵の道に進もうと思ったのは武蔵野美術大学に進学した後ですか?
田村:名古屋の旭丘高校に普通科と美術科があって、中学の時にもう美術科に進もうと思って。学校の先生が授業終わった後、特別に石膏デッサンを教えてくださって、すっと入学できました。そのころにはもうその気ですよ!
JK:もう美術大学に入るって方針を決めてたわけね。
田村:そのころ東京はパリのようで(笑)名古屋も都会でしたけど、田舎の都会というか都会の田舎というか(^^;)それでどうしても東京に行きたいって。
JK:私も高校の時同じように美術部で、天王寺の美術館に通いに通って、油絵を出して2年生の時に入賞したんです。それでその気になって、美術のほうに行くつもりだったのに、コロっと変わってしまって(^^) 高校生の時は同じでしたよ、モクモクと書いてました。デッサンなんか制服が真っ黒になって。
田村:食パンを消しゴム替わりにしてね。
JK:あとは裸婦も。スケッチブック1冊! 今度お見せしたいわ。
田村:ぜひ! ケチはつけませんから(笑)
JK:能里子さんといえばインドの思い出がいっぱい! 大変だったと思うけど。
田村:最初は旦那さんの転勤で。海外に行くのも、飛行機に乗るのも初めて! インドにぴょんと飛んで、カルカッタ、今ではコルカタと言いますが、そこに4年ほどいました。そこで初めてインドの女性を見るわけですけど・・・
JK:サリーですよね! あの布のすごさって!
田村:6~8mの長さのサリーをきれいに巻いてね。それで30代で帰って来たんですけど、やり残してきたような気持ちになって「どうしても行きたい!」と思って。
JK:いい人に出会ったわねえ!
田村:本当にいい人だったんですよ! 駅に着いたら、「This is my car」とおっしゃったのがラクダと荷馬車だったんです(^^;)当然車だとばかり思ってたのでウフッとなったんですけど、家族や使用人が全員迎えに来ていて。お泊りする部屋も使用人さんの部屋だったんですけど、周りにホテルがなかったのでね。
JK:ずいぶん無鉄砲ね!
田村:それで2か月ぐらいいたでしょうかね? またそのベッドが、裏が黒板になってて、朝起きたらぱたんと壁に収納するんです。賑やかだなあと思ってると、大勢の子どもたちがラクダの馬車で運ばれて来て、小学校の先生が来て「1たす1は?」って数学やら何やら教えて。「えーっ、黒板の上に寝てたんだ!」って(^^)
出水:学校だったってことですか! 校長先生のお宅に居候していたんですね!
田村:その校長先生が、「僕の知り合いがあちこち連れて行ってくれるので、心配しないで遠慮なくおっしゃって」と言うので、私が見たかった壁画で埋め尽くされた町を見られました。町じゅう壁画! 今もそのままあります。
JK:その街はなんていうんですか?
田村:ジュンジュヌって駅なんですけど、最初に目に入ったのがラクダや象がつながって歩いている壁画、あとは未来のインドの生活ぶりを描いてあったり、あとはdancingの風景とか、お金持ちの人がヨーロッパで見てきた車やジープが描いてあったり。
JK:誰が描いてるの?
田村:大昔のイタリアのフレスコと同じ描き方で、地元のお金持ちが絵師に描かせたんです。商人が行き来するのに、ただ砂漠だけじゃわびしい、華やかにしたい、と言うので。
出水:西安での壁画につながるわけですね!
JK:夢を持ってるから出会うし、出会ったら実現するんですよ。本を見ても、「これだ!」って思わなかったら実現しないし。純粋美術っていうけど、心が純粋でないとね!
田村:濁ってるかもしれないけどね(^^;)
(TBSラジオ『コシノジュンコ MASACA』より抜粋)