ぬるい番組がはびこる今。過剰な笑いが恋しい諸兄のために、テレビ史の「神話」を超回顧!



■世界ふしぎ発見!の後番組は…

 春の番組改編を終え、各局で新番組がスタートした。



「注目されたのは約40年続いたTBS系の『世界ふしぎ発見!』の後番組。結局、最近はやりのお金に関するクイズ番組でした。他を見回しても、グルメに街ブラと、無難な番組がズラリ」(テレビ誌記者)



 昭和・平成のテレビ黄金期を知る世代としては、どうも物足りない。やはり思い出されるのは、「天才・たけし」の番組だ。



■既存の漫才を壊した

 今回はビートたけし(77)が携わった80~90年代の過剰で過激な番組を振り返っていこう。



「『THE MANZAI』で既存の漫才を壊したたけしは、“テレビのバラエティも漫才みたいにぶっ壊したほうがいいよ。



 そんで、作り直しちゃったの”(『SIGHT』2014年冬号)と語っているように、“くだらない番組”を創造しました」(お笑いライター)



■ドリフターズの下品版スーパーJOCKEY

 その嚆矢が、1983年開始の『スーパーJOCKEY』(日本テレビ系)だ。



「“(ドリフターズの)下品版というかね、もっと作り物じゃない感じ”(前出の『SIGHT』)と、弟子のたけし軍団による過激な集団芸が最高でした」(前同)



 軍団が体を張り続けたのが『THEガンバルマン』というコーナーだ。



「工事用の機械で整体を施術されたり、燃え盛る氷柱を手刀で割ったり……。毎回、ここまでやるか、と」(同)



◆「命懸けだった」

 事実「命懸けだった」と語るたけし軍団のダンカンは、こう語る。



「『忍者に挑戦』で、水に潜って口に咥えた竹筒で呼吸する『すいとんの術』をやったんだけど、ほとんど酸素が入ってこない。しかも、たけしさんが筒に蓋をする。

死にかけましたよ(笑)」



 その中でも、最も死に近い経験をしたといわれたのが、浅草キッドだ。



「『軍団クイズ・体は資本だ!』のコーナーでの、浅草キッドによる『人間サイコロ』は伝説。水道橋博士玉袋筋太郎が入った発泡スチロール製の巨大サイコロを、スキー場で転がして丁半博打をするんですが、玉袋のサイコロが谷底に落下し、玉袋は気絶したそうです」(民放テレビ局員)



 ダンカンは「『ガンバルマン』が、その後の番組の原点」と語る。



「最後の大ネタのために、小さなボケを積み重ねる集団芸が完成されたんです」



 この後の番組では、たけし軍団のコンビネーションで土台を作って、他の芸人がオチを任されるケースも増えている。



◆ダチョウ俱楽部の熱湯風呂

『ガンバルマン』で軍団と対決したダチョウ俱楽部は、『熱湯風呂』を自分たちの持ちネタにまで昇華した。リーダーである肥後克広はこう語る。



「軍団の皆さんはリアクションのパターンを確立されてたので、僕らはコントの仕組みを持ち込んで対抗するしかなかったんです。“押すなよ、押すなよ。絶対に押すなよ!”で押す……とかね。後に、たけしさんから“熱湯風呂と熱々おでんを芸にした”と褒められたときは嬉しかったですね」




■天才・たけしの元気が出るテレビ!!ダンカンが放送作家デビュー

 85年に始まった『天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ系)では、ダンカンが放送作家としてデビューもしている。



「たけしさんは初回の収録内容にブチギレて“ダンカン、おまえがくだらないことを考えろ”と、僕を放送作家に入れたんです。



 会議に参加したら、総合演出のテリー伊藤さんは僕が企画を書いた紙にかじりつきながら、“いいねぇ!”と絶賛。

最初に採用されたのは『100人いれば怖くない』という企画かな」(ダンカン)



 どんな内容だったのか。



「一般の方が歩いてると、正面から100人のエキストラが走ってくるという内容。予算の関係で30人程になると思ってたら、本当に100人用意されていて感動しましたね」(前同)



◆脚光を浴びた林家ペー

 一つのコーナーで、一つの番組が作れると謳われた企画力で人気番組となったが、もちろん過激な企画も多数。多くの芸人が、「痛み」を引き換えにして脚光を浴びたが、その一人が、林家ペー(82)だった。



「正解すると高級車がもらえるクイズに挑戦も、ペーさんは不正解。罰ゲームとして愛車のフォルクスワーゲンが潰されることになって、クレーンで吊り上げた巨大な岩をボンネット上に落とされてました」(同)



 ダンカンは、この番組でペーから命懸けのダジャレを聞いたという。



◆救急車の中で

「当時、猿がウォークマンを聴いてるCMがあって(87年放送)。そのパロディを撮ろうと、林家ペーさんに、全身に茶色の毛を植える特殊メイクを施したんです。でも、3時間ほど経つとペーさんの顔が真っ青に。皮膚呼吸ができなくて酸欠になったんです」



 猿にふんし、苦しむぺー。



「救急車に乗せると、テリーさんが僕にマイクを渡してきて。僕は咄嗟にマイクを向けて“最後にダジャレを”と声をかけたら、ペーさんは“担架(丹波)哲朗”とつぶやいて意識を失いました。

カッコよかった!」(前同)




■ビートたけしのスポーツ大将で身体能力の高さを発揮

 過酷な体当たり芸で心身を鍛えたからか、85年放送開始の『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日系)では、たけし軍団はその身体能力の高さを発揮した。



「軍団チームは、阪神やロッテにも野球で勝利するほどの実力。また、番組企画で、軍団が日本ハムの入団テストを受けたところ、井手らっきょが100メートル走で11秒ジャストの記録を叩き出して合格したのも、すごい」(前出のテレビ局員)



 乱闘が起こるといつの間にか輪の中心でもみくちゃになり、全裸で出てくる「お約束」もおなじみの井手だが、名球会チームとの対戦後に一騒動を起こしていた。



「試合後に、みんなが樽を囲んで、鏡割りをしたときのこと。樽が割れた瞬間、袖から、らっきょさんがタオル1枚で出てきて“お先に失礼します!”って風呂みたいに樽に浸かったんです。会場は爆笑でしたが、村田兆治さんだけは、キレていたそう(笑)」(前同)



■風雲!たけし城では対素人参加者の構図

 86年から放送の『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS系)では、一転して、たけし対素人参加者の構図を作った。



「“集団催眠みたいのがあって、そのテレビの枠の中に入れられると、結構みんなリアクションよくなるのね”(『SIGHT』より)と、素人のリアクションだけでも面白くなる『枠』を作ったんです」(前出の記者)



『たけし城』のプロデューサーだった桂邦彦氏は、番組制作の理由を、こう語る。



「たけしさんはガキ大将じゃないですか。じゃあ、悪ガキを集めて、たけしさんを倒そうと。これが、たけし城を作った理由です」



◆総工費は1億円

 TBSが所有する緑山スタジオの空いた土地に「たけし城」を建て、その周辺に関門を配置した。総工費は1億円といわれている。



「1億円は初期投資で、番組が続けば減価償却できるだろうと考えたんです。素人参加者を、いかに面白くコケさせるか、それを第一に考えました」(前同)



 ダンカンも関門を考えるスタッフの一人だった。



「関門は“頑張って粘れるけど、最後は失敗する確率が高くて、自然と面白くなる”のが理想。“面白く失敗してください”と指示を出しても、似たリアクションになるだけですから」



 桂氏によると、『たけし城』は「たけしの観察眼」で面白くなったという。



「ツービートの漫才を見て思ったのは、たけしさんはボケではなく、世間に対してツッコミを入れているということ。『たけし城』でも、参加者の一挙手一投足を観察してツッコミを入れることで、笑いが生まれる。即興性が高いから、予測できない面白さがあるんです」




■ビートたけしのお笑いウルトラクイズで売れない芸人たちが!

 徹底的なくだらなさと、誰も見たことがない斬新さ、そして、練られた企画の上での即興性。そんな、たけしイズムの総決算と言える番組が89年開始の『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系)だ。



「たけしさんは“素人じゃなく芸人が『たけし城』をやったら、どうなるか”“売れない芸人をテレビに出してやりたい”という狙いで番組を立ち上げました。芸人たちには“クイズに正解しても画面から消えるだけだぞ”と忠告し、正解すると“頭が悪いな”と言いました」(民放テレビ局員)



 この番組でも、林家ペーは再び救急車で運ばれた。ダンカンは、こう回想する。



「たけしさんは“ペーさんに無茶させたら死んじゃうよな。そんな番組を作ろうぜ”と話し合って、『お笑いウルトラクイズ』を始めました。その初回、落とし穴に落ちたペーさんの足が変な方向に曲がったんです」



 穴には落ちてもタダでは転ばない、芸人魂の持ち主であるぺー。



「救急車を待つ間に、テリーさんが僕にマイクと金槌を渡して。僕は“骨折クイズ! 折れたのは右足でしょうか、左足でしょうか? ヒントです”と、折れたほうの足を金槌で叩きました。救急車に乗せられ去り行くぺーさん、カッコよかった!」(前同)



◆笑いの神に愛された上島竜兵

「骨折といえば……」とダンカンは続ける。



「収録中、ダチョウ俱楽部の竜ちゃん(上島竜兵)が骨折したかもしれないと言うから“大丈夫か!?”と駆け寄ったら開口一番“ウケた?”と。“みんな爆笑だよ!”と答えると“じゃあ、骨折してもいいや”。これぞ、芸人魂だと思いましたね」



 ダチョウ俱楽部は、この番組で本格的なブレイクを果たした。



「91年放送の、第6回大会です。不正解だと背負っているリュックサックが爆発するクイズでのアクシデントが、彼らの芸人人生を好転させたと思います」(前出のテレビ誌編集者)



 いったい、どんな状況だったのか。肥後がこう言う。



「スタッフの方たちのあらゆるシミュレーションが終わって、“いざ本番”というタイミングで、たけしさんが“『助けてくれ~』と言いながら防波堤まで走って、海に飛び込んだところで爆破しよう”と提案したんです。その演出は想定されていなかったので、海にジャンプしたとき、リュックサックが頭に乗った状態で爆発しちゃったんです」



 ここで稀代のギャグの元となる発言が生まれた。



「このとき、上島さんが発した“話が違う!”という言葉が、のちに“聞いてないよ~!”というギャグになりました」(前出の記者)



 リアルなアクシデントを、本物の笑いに変えたダチョウ倶楽部だが、肥後は事もなげに、こう語る。



「髪の毛がチリチリに焦げてドリフのコントみたいになったので、おいしかったですね(笑)」




■リアクション芸はチームプレイ

 肥後は、『お笑いウルトラクイズ』で、たけし軍団から「リアクション芸はチームプレイである」と教わったという。



「たとえば、ジンベエザメがいる海に落ちるとして、最初の人はすぐ逃げることで“サメの怖さ”を伝える。次の人は嚙まれてリアクションする。オチの人は助けを求めてみんなを海に落とす……といった展開をみんなで作っていくわけです」



 たけしも、この神髄を芸人たちに伝えていた。



出川哲朗らに「勘違いするなよ」

「たけしさんは、オチを任される上島(竜兵)さんや出川(哲朗)さんに、“勘違いするなよ。フリを担当する芸人がいて、おまえらが面白く映るんだからな”と、よく言われていました。



 実際、個人プレーに走る芸人は、番組から呼ばれなくなっていくんです」(肥後)



 これは、どういうことか。ダンカンがこう解説する。



「頑張りすぎちゃう芸人がいるんです。オチにつなげる役目なのに、“熱い”も“痛い”も言わずにクリアしちゃったり。ただ、ディレクターはタレントにダメ出ししづらいから、僕が“これはみんなで作る番組で、フリとオチを分かってほしい”と説明しました」



◆バス車内のCCDカメラに

 危険な企画を、演者とスタッフが、それぞれの職務を全うすることで成立させてきた、この番組。肥後が『バス吊り下げアップダウンクイズ』で目撃したのは、ダンカンの放送作家としてのこだわりだった。



「当日は海が荒れちゃって。地元の漁師も“今日は漁船も出さない”と言う中、海へバスが乗り出した(笑)。最初は腰の高さまで水が入ってきて、“たけし、やめろー!”なんて軽口を叩いていたんだけど、高波で海水がドーッと入ってくると、みんな溺れかけた」(肥後)



 非常時に備え、バスより下に潜っていたダイバーたちも必死だった。



「僕らが無我夢中でバスとクレーンをつなぐ鎖を握ると、ダイバーの方に“指が切れるから触らないで!”と注意されるんです。それでも手を離さない芸人は、キレたダイバーに“てめえら、指がなくなってもいいのか!”と水中で蹴飛ばされていました(笑)」(前同)



 ようやく脱出した肥後は、目を疑う光景を目にする。



「命からがら出られたと思ったら、ダンカンさんが“しまった! 車内のCCDカメラにリアクションするのを忘れた!”とバスまで潜っていったんです。作家も兼ねていたダンカンさんは、命を危険に晒しても撮れ高が欲しかったんでしょう」




■バンジージャンプクイズで

 芸人の性か、作家の本能か。不正解すると、地上60メートルのタワーの上に設置された滑り台から落下する『バンジージャンプクイズ』で、「日本一大きな両生類は?」という問題に、ダンカンは「カルーセル麻紀」と答えて不正解。このクイズを考えたのは、他ならぬ、ダンカン本人だった。



「企画会議で『すべり台バンジージャンプ』を提案すると“太田プロの芸人ならやってくれるはず”と盛り上がったけど“命の危険があるから”と断られてしまって。テリーさんが“これをやらなきゃ世の中がおかしくなっちまうよ!”と叫んで、スタッフ全員も、こっちを見るから“僕がやりましょう”と」(ダンカン)



 もちろん、ふだんはバンジージャンプをやるような施設ではない。強風であおられたら、タワーに激突する恐れもあったという。



「インストラクターに“ロープがピンと張る感覚がしたら成功です。体をバタつかせたらタワーに叩きつけられます”と説明されました。僕の後にジミー(大西)ちゃんが落ちたけど、体をバタバタさせて“お蔵入り”。たけしさんはタワーについた血を見上げて“ジミーちゃん、埋めちゃえばいいか”って(笑)」(前同)



 第7回『お笑いウルトラクイズ』の冒頭で、たけしは「ギャラは出ません。お弁当が食える。バスに乗れる。あとオレに会える。これが特典です」と話したが、あながち冗談ではない。



「たけしさんの笑顔を原動力に、芸人は頑張っていたんです」(ダンカン)



 これには肥後も頷く。



「たけしさんを笑わせたくて、放送されないことは分かってても無茶しましたよ。オシッコをかけあったり(笑)」(肥後)



■バラエティでも世界制覇を!

 昭和・平成のバラエティ番組は、制作費を潤沢に使えて、コンプライアンスの制約からも自由だった。だが、ダンカンは「あの頃はよかった」とは言いたくない、という。続けて、「逆に、あの頃が夢で幻だったんですよ。いい時代を過ごさせていただきました。常々、たけしさんは“映像は言葉を超える”と仰っていました。日本どころか英語も通じない土地でも“くだらなければ、くだらないほうがウケるんだ”と」



 事実、『たけし城』は世界150か国以上で放送されている。映画に先駆け、バラエティ番組においても「世界のキタノ」なのだ。



「日本以外で『お笑いウルトラクイズ』を放送したいんです。ウルグアイなんか、どうだろう。お知り合い、いませんか?」(ダンカン)



 コンプラの縛り、予算の制約はあれど、情熱があればテレビは面白い。




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