東急電鉄三大幹線の1つ「目黒線」。そのルーツは「目蒲線」でした。

東急電鉄の創業路線でありながら、いつまでも古い“お下がり”電車が走り、歌謡曲で「どうでもいい」と歌われた不遇な時代もありました。そんな目蒲線を懐古します。

目黒~蒲田間約13kmのコミューター 古い電車がコトコト

 2022年度下期の開業を目指して「東急新横浜線」の建設が進んでいます。東横線・目黒線の日吉駅(横浜市港北区)から分岐し、新綱島駅(仮称・駅名公募中)を経て、新横浜駅(仮称)に至ります。さらに相模鉄道が開業する「相鉄新横浜線」に直通し、海老名駅(神奈川県海老名市)、湘南台駅(同・藤沢市)へ相互直通運転する予定です。東急電鉄にとって目黒線は、東横線や田園都市線と合わせて東急三大幹線の1つに位置づけられています。

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かつて目蒲線で使われた旧3000系電車。地上時代の西小山駅にて(1980年12月、松尾かずと撮影)。

 しかし、2000(平成12)年8月5日に目黒線が誕生するまで、現在の目黒線の目黒~多摩川間は「目蒲線」と呼ばれていました。目黒~蒲田間を結ぶ路線の一部です。筆者(杉山淳一:鉄道ライター)が子どもの頃は、3両編成の緑色の電車、初代3000系が「うぉぉぉん」と吊り掛け式モーターの音を響かせて走っていました。目蒲線は現在の目黒線からは想像しにくいほどのローカル線。

同じく3000系で運行されていた池上線と姉妹路線のようでした。

 東急電鉄は銀色のステンレスカーをいち早く導入していました。しかし、軌道線の世田谷線と、鉄道線の目蒲線、池上線は最新型電車がなかなか導入されず、いつまで経っても緑色の電車が走っていました。目蒲線にようやくステンレスカーが導入された時も、東横線や田園都市線の“お下がり”の7000系などでした。車体長18m級規格の路線だから、8000系や8500系など最新型の20m級電車は走れません。

 軌道線の世田谷線は都内で貴重な路面電車規格ということもあって、車両が古くても風情があり、ホームドラマにも登場しました。しかし、目蒲線と池上線は「ただの古い電車」ばかり。私も含めて沿線の人々は、なんでこんなに冷遇されているんだろう、と思ったものです。

歌謡曲でイジられた不遇時代 でも東急のルーツ路線なのだ

 目蒲線も池上線も、古い3両編成とはいえ、ラッシュ時間帯は3分間隔の高頻度で運行されていました。日中も10分未満の間隔だったと記憶しています。いつも混んでいて、滅多に座れない。地域にとって重要な路線なのに、東急電鉄の中でも「残念な子」に見えました。

「あってもなくても…」東急目蒲線を覚えているか 直通とは無縁な都会のローカル線

旧3000系電車。西小山駅付近にて(1974年9月、松尾かずと撮影)。

 しかしそれが逆におもしろがられたようで、歌謡曲でイジられます。『池上線』(佐藤順英作詞、1975年)では「古い電車」「すきま風に震える」と歌われ、『目蒲線物語』(おおくぼ良太作詞、1983年)に至っては「あってもなくてもどうでもいい」とまで茶化され、笑いのタネになるほどでした。皮肉なことに『目蒲線物語』は、続編や姉妹編が作られるほどのヒット曲になりました。

 そんな目蒲線ですが、実は東急電鉄創業のきっかけとなった路線です。明治時代の実業家、渋沢栄一が「田園都市構想」を掲げて洗足、多摩川台地域を宅地開発します。その地域から都心へ向かうアクセス路線として目黒蒲田電鉄を設立、開通させました。後に支線として大井町線を建設、池上線の母体となった池上電気鉄道と、東横線の母体となる東京横浜電鉄を合併して、社名を東京横浜電鉄とします。これが東急電鉄、東急グループの母体となりました。

 目蒲線の開通によって沿線地域はたくさんの人々が住み、住宅密集地となりました。そして東急電鉄は多摩田園都市の開発に着手。

投資を集中させます。その結果として、目蒲線と池上線は現状維持、中古電車の受け入れ路線となりました。

分割で目蒲線消滅 地下化や直通で大変貌

 沿線はのどかそのもの。住宅密集地といっても、線路脇には野花が咲き乱れ、線路境界の柵のあたりは近所の人々が植木鉢を並べていました。天気の良い日は車窓から青空と洗濯物がよく見えました。その雰囲気は、いまも池上線や東急多摩川線に残っている気がします。

「あってもなくても…」東急目蒲線を覚えているか 直通とは無縁な都会のローカル線

目黒線を走る都営三田線の6300形電車(画像:写真AC)。

 そんな目蒲線の転機が、前述の目黒線計画でした。1985(昭和60)年に運輸省(当時)の運輸政策審議会答申第7号「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」で、「都営地下鉄三田線と東急目蒲線の相互直通運転」と「東急目蒲線の目黒~多摩川園間の改良、東急東横線の多摩川園から大倉山までの複々線化」が盛り込まれます。これが現在の目黒線です。

 東急電鉄は多摩田園都市の大規模開発に成功しました。一方で田園都市線の混雑が問題になりました。

そこで、東急電鉄は目黒線を都心直通の第3のルートとして整備します。目黒~多摩川間の線路は高架と地下による立体交差を増やし、各駅のホームを延伸します。また、大岡山駅(東京都大田区)を地下化して、大井町線と目黒線を同一プラットホーム対面乗り換えとしました。田園都市線に大井町線直通列車を走らせ、大岡山駅で目黒線に乗り換えてもらおうという作戦です。

東急多摩川線も変わる 将来は京急とともに羽田空港へ?

 この結果、目蒲線は多摩川駅(東京都大田区)で分割されました。目黒方面は目黒線、多摩川方面は東急多摩川線となりました。大規模な改良が行われた目黒線に比べると、東急多摩川線は目蒲線時代の雰囲気を残し、筆者にとっては懐かしい眺めです。そういえば子どもの頃、母方の親戚が沼部駅(同)付近に住んでいて「東急に線路の土地を貸しているから家賃が入る」などと言っていました。今となっては真偽不明ですが、鉄道線路の建設にあたっては、借地で線路を通すという事例もあったかもしれません。

「あってもなくても…」東急目蒲線を覚えているか 直通とは無縁な都会のローカル線

東急多摩川線を走る1000系電車。沿線はかつての目蒲線の雰囲気を残す(2015年2月、大藤碩哉撮影)。

 旧態依然とした東急多摩川線区間にも変化がありました。

2007(平成19)年には同線と池上線に専用の新型車両7000系電車(2代目)が投入されました。さらに現在、東京都大田区が推進する新空港線(蒲蒲線)計画に組み入れられています。東急多摩川線の矢口渡付近~蒲田間を地下化し、さらに京急蒲田駅(東京都大田区)へ延伸するものです。将来的には大鳥居駅(同)まで延伸し、京急空港線に連絡。対面乗り換え方式やフリーゲージトレインによる直通運転が構想されています。

 目蒲線時代に4両編成の電車を運行した時期があるため、東急多摩川線の各駅は、車体長18m級4両編成まで対応しています。新空港線の建設に合わせて、東急多摩川線も20m級10両編成に対応させて、東横線や目黒線と直通運転する構想もあるといいます。「あってもなくてもどうでもいい」目蒲線の痕跡は、ついに消えることになりそうです。

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