旧日本海軍の機動部隊が真珠湾攻撃のため北太平洋を南下していたまさにそのとき、同じ太平洋の西の一隅では、アメリカ海軍の小さな武装ヨットがとある任務についていました。フネに見合わない危険すぎる任務、その「意味」に迫ります。

わずか150トンのスクーナーに不釣り合いな「危険すぎる任務」

 旧日本軍の機動部隊による真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、もしかすると1隻のヨットに、開戦の引き金の役をとって代わられていたかもしれません。日本ではほとんど知られていないであろうその小さなヨットは、しかし、アメリカの公式記録にはしっかりと、不釣り合いなほどの詳しい資料と共にその名を刻んでいます。

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建造されて間もなく1918年初めにハワイ・真珠湾で撮影された、当時「エルメス」という名称だった「ラニカイ」。中々優美なヨットだった(画像:アメリカ海軍)。

 1941(昭和16)年12月5日、フィリピンで小さなスクーナー(マストを2本以上持つ帆船)がアメリカ海軍にチャーターされます。アメリカのカリフォルニアで1914(大正3)に建造された、「エルメス」という船齢27年のいわゆるヨットです。

何度か所有者が変わり、チャーター時には「ラニカイ」に改名されていました。

「ラニカイ」は全長26.6m、排水量150トン、エンジン付きの機帆船で速度9ノットでした。3ポンド(47mm)砲1門、12.7mm機銃と7.62mm機銃で武装し、海軍士官ケンプ・トーリー中尉が艇長となり、星条旗を翻し晴れてアメリカ海軍の船となります。しかし、いかにも急ごしらえの小型すぎる武装ヨットで、とても海軍艦艇には見えません。

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「ラニカイ」の艇長を務めたケンプ・トーリー中尉。1959年に少将に昇進して退役、100以上の論文と3冊の本を著した(画像:アメリカ海軍)。

 このころのアメリカおよびアメリカ海軍は、1941(昭和16)年11月下旬から西シナ海および南シナ海を南下する日本の大規模な輸送船団の目的地を知ろうと躍起になっていました。

 12月2日にルーズベルト大統領は、海軍作戦部長のH・R・スターク提督を通じて、アジア艦隊司令長官のT・C・ハート提督に「3隻の小型船をチャーターして防衛情報哨戒隊を編成し、西シナ海とタイ湾での日本の動きを観察して無線で報告する」よう命じ、そのためにチャーターされた1隻が「ラニカイ」でした。

「ラニカイ」は、ベトナムのカムラン湾付近の海域まで進出することになっていましたが、日米間の緊張が高まっている時期で、西シナ海では日本軍の活動が活発化しており、任務の重要性、危険性の割にはあまりに不釣り合いに見えるフネでした。

陰謀論か否か 「ラニカイ」が課された任務の「真の目的」

 当時のベトナムはフランス領インドシナと呼ばれ、日本軍が進駐していました。カムラン湾は兵站上、重要な港湾であり、小型過ぎる武装ヨットとはいえ、星条旗を掲げ武装したアメリカのフネが接近すれば、どうなるかは想像に難くありません。

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後部マスト付近に搭載された3ポンド(47mm)砲。
メモ書きから1941年12月にマニラ湾で撮影されたものと見られる(画像:アメリカ海軍)。

 公式な命令は「日本の動きを観察して無線で報告すること」でしたが、無線を発すれば日本側にも容易に傍受され、そして存在がバレれば逃げることなど到底できません。「ラニカイ」に期待された任務は「アメリカにとって『不測』の事態を起こすこと」、すなわち日本軍に「最初の1発を撃たせること」だったといわれます。

 見つかりやすく逃げられないフネなら、確実に日本軍に拿捕されるか攻撃されます。そしてそれが開戦の口実になります。アメリカは、まさか日本海軍の機動部隊がハワイ真珠湾を突いてくるとは思わず、日米開戦のキッカケは南シナ海、フィリピン方面と想定していたので、こうしたエサを用意したようです。

 先に紹介したように、アメリカ大統領がたった3隻の防衛情報哨戒隊の編成命令を出した記録が、はっきり残っているのも意味深です。指揮をとったケンプ・トーリー中尉はのちに海軍少将まで昇進し、退役後『ラニカイの航海』という冒険小説を書き、日本軍に攻撃されることが任務であったことを示唆しますが、どこまで真実を書いているかは分かりません。

日本軍はツレなかった

 12月6日早朝に、防衛情報哨戒隊の1隻であるUSS「イサベル」(排水量710トン)が、インドシナ沖で日本海軍の特設水上機母艦「神川丸」から発進した零式水上偵察機に発見されます。しかし日本軍は、このエサには食いつきませんでした。

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USS「イサベル」。12月6日早朝に日本海軍の零式水上偵察機に発見されるが見逃がされる(画像:アメリカ海軍)。

「ラニカイ」は12月7日夜半(国際日付変更線の東側では12月6日)にマニラを出港し、カムラン湾に向かっていました。そして12月8日未明(ハワイ時間12月7日早朝)に日本海軍が真珠湾を攻撃します。これを受け、ギリギリのタイミングで「ラニカイ」には反転帰還命令が出されました。もはやカムラン湾に向かう必要はなくなったのです。

 太平洋戦争が開戦すると、「ラニカイ」にはマニラ湾の警備任務が与えられます。マニラにも日本軍が迫ってきますが、小型過ぎる武装ヨットは日本軍からも攻撃に値する目標とはみなされなかったようです。

その後「ラニカイ」は、オーストラリアに脱出して戦争を生き延びています。

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1942年初めにオーストラリアのポート・ボウで撮影されたラニカイ。大きな2本マストが目立つ(画像:オーストラリア戦争記念館)。

「ラニカイ」がもっと早いタイミングでカムラン湾に突入、日本軍がこのエサに食いついていたら、太平洋戦争は日本海軍機動部隊の真珠湾攻撃ではなく、カムラン湾での「ラニカイ号事件」で始まった、と歴史に名を残していたかもしれません。真珠湾攻撃についてはいまだに陰謀論がささやかれますが、歴史の波間にはこうした様々なエピソードが漂っています。

「ラニカイ」はオーストラリアへ脱出後、同国海軍に改めてチャーターされます。そして1946(昭和21)年にチャーターを解除されますが、以前の所有者も権利を放棄し、行き先が無くなってフィリピン スービック湾のアメリカ海軍施設に保管されることとなります。やがて1947(昭和22)年の台風で沈没し、2003(平成15)年には、その残骸が海底で発見されました。