JR中央本線の三鷹車両センターに架かる三鷹跨線人道橋は、建設から90年以上が経過し、老朽化のため撤去が検討されています。太宰治もお気に入りだったこの橋は、見晴らしがよいだけでなく、街にとって大事な役割を果たしてきました。
2021年5月現在、JR中央線・三鷹駅(東京都三鷹市)近くの歴史ある跨線橋の撤去が検討されています。中央線と三鷹車両センターを南北に横断する、全長93m、幅2.89mの「三鷹跨線人道橋」です。
読売新聞や朝日新聞、毎日新聞が、2020年12月から跨線橋の存廃について相次いで記事にしています。
三鷹市の上連雀1丁目と2丁目を結ぶ三鷹跨線人道橋(栗原 景撮影)。
この跨線橋が建設されたのは、1929(昭和4)年8月。三鷹車両センターの前身である三鷹電車庫が設置されるにあたり、地域が南北に分断されることから設置されました。
当時はまだ三鷹駅もなく(翌1930年6月開業)、周囲は田畑と民家が点在するばかり。跨線橋からの見晴らしは抜群で、地域の人々から「陸橋」と呼ばれて親しまれました。1939(昭和14)年に三鷹へ転居してきた作家の太宰 治もこの陸橋を愛した一人で、知人をよく案内していたそうです。
現在も、三鷹跨線人道橋は昭和初期の姿をよく残し、地域住民に親しまれています。晴れた日はたいてい電車を見に来た親子連れの姿がありますし、ここを毎日のお散歩コースにしている人も大勢います。
しかし、建設からすでに92年。
これで直ちに撤去が決まるわけではありませんが、今後はJRの判断にかかっています。
分断された町をつなぎ発展させてきた三鷹のシンボル的な存在でもあった陸橋は、戦前の航空写真にもその姿を残しています。国土地理院が公開している1936(昭和11)年9月24日撮影の航空写真には、開設から7年を迎えた三鷹電車庫の中央に、西日を受けて線路に影を落とす三鷹跨線人道橋がはっきりと写っています。
その後も、航空写真は数年ごとに撮影されており、三鷹の町がどんどん発展していく様子を観察できますが、「陸橋」はいつの時代も同じ場所で、同じ姿で写っています。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年2月には、三鷹電車庫が米軍の空襲を受けますが、陸橋に大きな被害はありませんでした。

1936年9月24日に旧陸軍が撮影した三鷹の航空写真。民家は少ないが陸橋と電車庫は今と変わらない(画像:国土地理院)。
さて、時代ごとの航空写真を見比べると、興味深いことがわかります。1936年の写真では、陸橋の周辺は田畑と雑木林が多く、民家は数えるほどしかありません。
陸橋周辺は、上連雀(かみれんじゃく)と呼ばれる地域です。三鷹は、まず1657年に江戸を襲った「明暦の大火」で家を失った神田連雀町(現在の千代田区神田須田町1丁目付近)の人々が、現在の三鷹駅南側に移住し、連雀新田を開きました。その後、西側の土地を開墾して連雀前新田と呼ぶようになり、やがて江戸に近い連雀新田を下連雀、京に近い連雀前新田を上連雀と改称します。
つまり、三鷹はまず三鷹駅南口の下連雀が発展し、ついで三鷹電車庫周辺の上連雀が開かれたのです。しかし、上連雀は三鷹電車庫と中央線によって分断されていました。
昭和に入り、上連雀の宅地化が進みます。1947年の航空写真は、上連雀が住宅地として発展し始めた時期のもので、跨線橋が大きな役割を果たしていたことがうかがえます。
明治時代の古レールも使われている文化財三鷹の人々とともに歴史を刻んできた三鷹跨線人道橋ですが、今は素人目にも相当老朽化が進んでいることがわかります。また、200mほど三鷹駅寄りには、自転車も通行できる堀合(ほりあわい)地下道があり、陸橋がなくなっても南北の往来は一応保たれます。陸橋の耐震補強工事と管理のコストを考えると、撤去が検討されるのもやむを得ないことかもしれません。
一方で、この陸橋には鉄道史的にも価値があります。

スマホであれば金網の隙間から安全に電車の写真を撮れる(栗原 景撮影)。
また、三鷹車両センターや中央線の電車を安全に見学できる場所である点も見逃せません。陸橋には、毎日電車を見に来る親子連れ・家族連れの姿があります。老朽化が進んでいるとはいえ、大人の背よりも高い金網はよく管理されており十分安全。三鷹の子どもたちは、この陸橋で「かっこいい電車」を心ゆくまで眺め、電車と鉄道に親しみを感じて育ちます。金網はそれほど細かくなく、スマートフォンのカメラなら金網に邪魔されることなく写真を撮ることができ、冬の晴れた日なら電車の向こうに富士山がきれいに見えます。
ある施設が役割を終えて消えてゆくのも、やむを得ないことではあります。ですが、電車好きの子どもを育て、町と鉄道の歴史を語りかける三鷹跨線人道橋には、価値もあるはず。JRと三鷹の人々の選択が待たれます。