1923(大正12)年9月1日11時58分、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生し、関東南部を中心に甚大な被害が発生しました。当日は10m/sを超える強い南風が吹いていたこと、また昼食の準備で火を使っていた家庭が多かったことで、大規模な火災が発生。
火災が拡大した要因の一つが、下町の密集した木造長屋と狭い道路でした。政府は9月27日に帝都復興院を設置し、内務大臣後藤新平を中心として区画整理、道路拡幅、耐震性・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの建築推進、道路や橋梁の整備など大規模な都市改造を行いました。都市構造の変化は当然、鉄道にも大きく影響します。
震災前の東京は、第一次世界大戦の大戦景気を背景に流入人口が増加し、急速に過密化が進んでいました。当時の東京市は東京駅から半径5~6km程度の範囲に過ぎませんでしたが、1908(明治41)年に158万人だった人口は、12年後の1920(大正9)年には217万人に達していました。
ちょうど100年後にあたる2020年の同範囲の人口(国勢調査250mメッシュ人口から推計)は約130万人ですが、これは高層建築を前提とした数字です。長屋が密集し、217万の人間がひしめき合っていた情景が浮かぶことでしょう。
これでは新しい流入を受け入れることはできませんし、そもそも住環境が悪すぎて、人の生活に適した土地とはいえません。そこで人々は土地が広く、環境の良い郊外へと移り住みました。これは都市化の過程で発生する世界共通の現象であり、郊外化(suburbanization)と呼ばれます。
地下鉄計画を後回しにした結果…東京では関東大震災以降、東京南西部に相次いで開業した目黒蒲田電鉄(現在の東急目黒線、東急多摩川線)、東京横浜電鉄(東横線)、小田原急行鉄道(小田急電鉄)などの私鉄が受け皿となって郊外化が進みました。
これらの私鉄はいずれも震災前から計画が動き出していました。特に東京横浜電鉄は武蔵電気鉄道、小田原急行鉄道は東京高速鉄道という名称で1920(大正9)年に地下鉄免許を取得しており、郊外路線と地下鉄路線を一体的に運行する計画で設立された鉄道事業者でした。
地下鉄は、路面電車で乗客を運びきれなくなった都市に建設されます。路面電車の速度では半径4~5km、1列車あたり100人程度の輸送が限界ですが、地下鉄であれば10km以上、数百人の輸送が可能です。東京地下鉄道(現在の銀座線新橋~浅草)を含め、この時代に地下鉄計画が相次いで浮上した背景には東京の拡大がありました。
しかし同じ1920(大正9)年、大戦景気で過熱したバブル経済は崩壊し、一転して深刻な不況に陥ります。そこで莫大な費用を要する地下鉄建設は後回しにして、先行して建設した郊外部分が東横線と小田急線です。こうした路線の開通前後に関東大震災が発生したのは全くの偶然だったのです。
震災前から動き始めていた地下鉄計画も震災の影響を大きく受けます。1920(大正9)年までに免許された7路線は、各社の出願を組み合わせた統一感を欠くものでした。地下トンネルの収容空間となる幹線道路が復興事業で整備拡充されることをふまえて再検討され、1925(大正14)年に改定されました。
国有鉄道はどのように変化したのでしょうか。1920(大正9)年時点で都心では中央線(神田~吉祥寺)、山手線(上野~神田)、京浜線(東京~桜木町)の3路線で電車が運行されていました。
山手線には貨物列車が頻繁に走行していましたが、電車の運行拡大で線路の共有が困難になったため、複々線化(山手貨物線)を決定。1918(大正7)年の品川~大崎間を皮切りに、1925(大正14)年までに田端駅まで整備を完了しました。
郊外化の受け皿となった私鉄線の利用者のさらなる受け皿となったのが山手線です。本来であれば私鉄から地下鉄に乗り換えて(または直通して)都心に向かうのが理想でしたが、地下鉄の開通が遅れたため、山手線が新橋、東京、神田方面への輸送を一手に引き受けました。山手貨物線の着手が遅れていたら、震災後の郊外化に対応できなかったかもしれません。
もう一つ、震災前後の大きな変化が、1925(大正14)年11月の山手線神田~上野間開業、1932(昭和7)年7月の総武線御茶ノ水~両国間開業です。前者は1920(大正9)年に着工し、1925(大正14)年3月の開業を予定していましたが、震災の影響で延期されました。この神田~上野間が開業したのは同年11月で、山手線の環状運転もこの時から始まりました。
一方、震災後に具体化したのが総武線の御茶ノ水乗り入れです。
ところが震災でこれら地域の多くが焼失する事態となり、復興事業の区画整理の対象となったため、用地の買収が実現。1931(昭和6)年2月の着工からわずか1年5か月という驚異的なスピードで、山手線を乗り越す秋葉原駅の二重高架線が開通したのです。
総武線は御茶ノ水乗り入れと同時に御茶ノ水~両国間で電車の運行を開始。1935(昭和10)年までに順次、千葉駅まで電化区間を延長し、東京圏が東部に拡大しました。帝都復興事業は震災から6年後、1929(昭和4)年10月開催の「帝都復興博覧会」を以て完了が宣言されましたが、総武線の延長はまさしく「復興後」の東京を象徴する事業だったといえるでしょう。