東京臨海部の豊洲と晴海を隔てる運河にさび付いた「晴海鉄道橋」が架かっています。貨物線廃止から約30年間そのままですが、このたび再活用に向けて動きが。

戦後の復興を支えた東京都港湾局専用線の歴史を振り返りつつ現地を歩きました。

東京都港湾局専用線、動き出した保存・公開への道

 高級マンションや大型ショッピングモールが並ぶ豊洲(東京都江東区)から、晴海(同・中央区)に向かう春海橋の横に、さび付いた鉄橋があります。これは、越中島と晴海ふ頭一帯を結んでいた、東京都港湾局の貨物専用鉄道の跡。一般には「晴海橋梁」「晴海鉄道橋」などと呼ばれ、1989(平成元)年に廃止されて以来、約30年にわたって撤去されずに残っています。

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復活に向けて動き始めた晴海鉄道橋。その下を1日2回、豊洲発浅草行き水上バス「ヒミコ」が通過する(2019年12月、栗原 景撮影)。

 都会の中の廃線跡として知られたこの鉄道橋が、近い将来、遊歩道として復活することになりそうです。東京都は2017年に臨海部の海上公園ビジョンを策定し、そのなかで晴海鉄道橋の遊歩道化を盛り込みました。

 その後しばらく動きはありませんでしたが、2019年7月に基本・実施設計に着手。大手建設コンサルタント会社のオリエンタルコンサルタンツに業務を委託して、いよいよ遊歩道化に向けて動き出しました。東京都港湾局開発整備課によれば、現在はどのくらい補修が必要なのか技術的な検討を行っている段階で、2020年春までに成果を得ることになっています。

 晴海鉄道橋を含む東京都港湾局専用線の晴海線が開業したのは、1957(昭和32)年12月17日のことですが、この鉄道の歴史を紹介するには、もう少し時計の針を戻す必要があります。

戦後の復興を支えた東京都港湾局専用線

 戦前まで、東京湾には大規模な港がありませんでした。水深が浅く、大型船の航行に適さなかったからです。晴海は「4号埋立地」として昭和初期に造成され、1940(昭和15)年に開催予定だった日本万国博覧会の会場となるはずでしたが、戦争の激化によって中止。代わりに、1941(昭和16)年5月20日、国際貿易港「東京港」が開港しました。

 しかし、新しい埋立地には鉄道や道路などのインフラがありません。そこで、総武本線の亀戸駅(東京都江東区)から小名木川貨物駅(現在の江東区北砂付近)まで延びていた貨物線を、豊洲の手前の越中島まで延伸することになりました。

この路線は1945(昭和20)年3月に一応完成しましたが、すでに戦争末期で空襲も激しく、列車が走ることはありませんでした。

晴海・豊洲を走っていた鉄道 知られざる「東京都港湾局専用線」 遺構をたどる

1957年12月、晴海線開通時の様子(画像:東京都港湾振興協会)。

 戦後、晴海は芝浦や日の出などとともに連合国軍に接収されましたが、豊洲は接収を免れ、ここに経済復興の一環として石炭埠頭が建設されます。越中島まで来ていた貨物線を延伸し、1953(昭和28)年7月20日、深川線の越中島~豊洲石炭埠頭間2.6kmが開業。現在の豊洲市場水産卸売市場の辺りまで、線路が延びたのです。

 そして1957(昭和32)年、晴海地区が全面的に返還されると、ただちに晴海に至る専用線が建設され、同年12月17日に晴海線(深川線分岐点~晴海埠頭)2.2kmが開業しました。

晴海鉄道橋は、この時に建設されたもので、国鉄が設計・建設し、完成後に東京都に引き渡されました。

昭和の終わりを見届けて、東京都港湾局専用線は36年の歴史に幕

 東京港の都港湾局専用線は、その後も拡充されて、最盛期には芝浦から豊洲に至る一帯に24km以上の路線網を持っていました。晴海は日本を代表する物流拠点となり、東京国際見本市会場も開場。1960年代から1970年代にかけての高度経済成長期には、石炭、コークス、塩、新聞巻取紙、米、小麦、生鮮食品など幅広い品目を取り扱い、取扱貨物量は年間170万トンに達しました。

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すぐ隣に晴海通りの春海橋が架かっており、鉄道橋を間近に観察できる(2019年12月、栗原 景撮影)。

 1962(昭和37)年には、晴海鉄道橋を介して蒸気機関車「義経号」(現在は京都鉄道博物館所蔵)や展望車のマイテ39 11(同鉄道博物館所蔵)といった名車が晴海に集められ、「鉄道博覧会」が開催されたこともあります。

 しかし、1970年代後半になると陸上貨物はトラック輸送が中心となり、国鉄の貨物輸送がコンテナ中心に代わった影響もあって、輸送量は縮小していきました。

 1985(昭和60)年から路線の廃止が始まり、最後に残った晴海鉄道橋と晴海線も、平成が始まった1か月後の1989年2月10日に廃止され、東京都港湾局専用線は36年の歴史の幕を閉じたのです。

 鉄道橋としての役割を終えた晴海鉄道橋ですが、周囲の再開発が進むなか、ここだけが撤去されずに残された理由ははっきりとは分かりません。ただ、晴海鉄道橋は国内の鉄道橋として初めてローゼ桁と呼ばれるアーチと連続PC(プレストレストコンクリート)桁を採用した橋であり、歴史的に高い価値があることから、早い段階から保存する構想はあったようです。

専用線の遺構が…ビルの谷間に埋もれる「昭和鉄道史」

 平成の30年のあいだに、豊洲と晴海は大規模な再開発が行われ、いままた2020年東京オリンピック・パリンピックに向けて選手村や公園施設などの整備が進められています。東京都港湾局専用線の痕跡もほとんど失われてしまいましたが、いまも、晴海鉄道橋のほかいくつかの遺構を見ることができます。

晴海・豊洲を走っていた鉄道 知られざる「東京都港湾局専用線」 遺構をたどる

塩浜二丁目の廃線跡は都有地として残され、草むらの中にレールが寂しく残る。徐々に荒廃が進んでいる(2019年12月、栗原 景撮影)。

 その代表が、江東区塩浜二丁目6の三ツ目通り横にある空き地。大型マンションの前にある広い都有地で、立ち入ることはできませんが、雑草のなかにレールが埋もれているのが見えます。1本西側の都道319号支線の道路脇、塩浜二丁目1付近にも小さな空き地にレールが残り、豊洲運河では20年ほど前まで残っていた豊洲橋梁の橋脚が水に洗われています。

 これらの遺構は、ほとんどが「跡地が活用されずたまたま残ったもの」ですが、専用線の記憶を語り継ぐモニュメントとして保存されているものもあります。豊洲三丁目公園東側の歩道。ここは、かつて豊洲方面への深川線と、晴海線が分岐した地点で、歩道にレールが埋め込まれた状態で残っています。ただし、案内板の類は一切ないため、レールに注目する人はほとんどいません。

 しかし、晴海鉄道橋が遊歩道として復活すれば、きっとこれらの遺構も再び人々の注目を集めることでしょう。いまやすっかり最先端を行く都市となった豊洲と晴海。そのビルの谷間には、いまも戦後の鉄道史が埋もれています。