9月1日が「防災の日」に制定されるきっかけとなった関東大震災では、東京圏を激震が襲い、さらに広域で火災が発生しました。火の手が迫る中、被害を最小限に食い止めようと東京駅で奮闘した駅員がいました。

駅員が発した「線路に飛び下りろ!」 負傷者はわずか数名

 1923(大正12)年9月1日、関東地方南部を大地震が襲いました。東京の下町と横浜市街を中心に死者約10万5000人を出した関東大震災です。被害の大半は広域火災によるものでした。

 鉄道にも大きな被害がもたらされています。その一例として東京駅の出来事を見てみましょう。そこには「神対応」とも思える鉄道員の奮闘がありました。

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東京駅の赤煉瓦駅舎(2019年8月、内田宗治撮影)。

 正午前の東京駅第3番ホーム(5・6番線)。そこには下関発急行第6列車を出迎える40名ほどが集まっていました。いつものように8620形蒸気機関車が、和食堂車も連結された14両の客車を従えて、到着してくるはずでした。

 午前11時58分、地鳴りと共に激震が始まります。金属がきしみあう不気味な音が響きわたり、ホームの屋根が5番線方面へ傾きながら落下してきました。

出迎えの人たちが悲鳴をあげます。この時、ホームにいた駅員がとっさに6番線側を指さして、

「こっちの線路に飛び降りろ!」

と、大声で叫びます。長いホームを走りながら、何度か声を限りに叫びます。

 ある者は一目散に、またある者は年配のご婦人を抱きかかえるようにして線路に下りていきます。そのおかげで、ホームの屋根は完全にペチャンコになりながら、数名の軽傷者を出しただけで済みました。

 現在なら、駅員が「線路に飛び下りて!」と叫ぶことは、ありえないと思うかもしれません。そうした指示となったのは、当時のホームが現在よりやや低かったこと、東京駅のような大きな駅は手前に分岐器がいくつかあり、そこで列車は減速して入線してくることなどが考えられます。

 ちなみに、2011(平成23)年の東日本大震災では、仙台駅で新幹線ホームの天井材が大規模に落下しました。幸いこの時ホームに乗客はいなかったのですが、もし乗客がいたら、とっさにどこへ逃げるか究極の選択を迫られたと思います。

火災発生 地震には耐えた東京駅舎に火の手が迫る

 関東大震災では、東京駅で乗客に1人の犠牲者も出さなかった(軽傷者数名程度)ことが評価され、上記の駅員は、後に鉄道省から表彰されています。ただ、その後に迫ってきた火の手への対応も、評価されるに値するでしょう。

ホームの屋根落ち火の手も 東京駅と関東大震災 犠牲者ゼロにした駅員の神対応

関東大震災直後、被害のあった東京駅第3ホーム。
写真右、荷物車が停まっているのはホーム北端の引込線。写真奥のホームで屋根が落下している(画像:『関東地方大震火災写真帖』)。

 地震発生直後から、東京では凄まじい勢いで火災が広がりました。午後5時くらいまでは南の風で、神田、本郷、本所、深川の大半が焼け野原と化しました。夕方から翌2日未明にかけては、西または北からの強風に変わり、浅草、下谷、日本橋、京橋、芝の大部分を猛火が舐めつくします。これにより秋葉原駅から東京駅付近にかけてと、新橋駅から浜松町駅にかけてが焼けました。9月2日の昼からは、焼け残っていた地をしらみつぶしに殲滅するように、東風に乗って浅草方面から上野駅へと火が迫り、夜に至って上野駅は全焼してしまいます。

 一方、震災前の1914(大正3)年に竣工した東京駅の赤煉瓦駅舎は、地震の強い揺れでもほとんど損傷はありませんでした。その後に火の手も襲ってきましたが、駅員たちの活躍により、焼失を免れたのです。

焼け落ちた鉄道省 客車は水を浴びせ人力で移動

 当時、東京駅のホームは第1から第4までの4面で1~8番線があり、現在の新幹線ホームがあるあたりは、線路が何本も並ぶ客車の留置線(北部収容線と南部収容線)でした。北部収容線の東側には鉄道省の本庁舎がそびえ、北部収容線と第4ホームの間に東京車掌室の建物がありました。南部収容線付近には機関車の基地である東京機関庫もありました。

 地震発生当時、東京駅構内には、ホームと収容線合わせて275両の客車が停留されていました。そうした東京駅へ1日夜、北から火災が迫ります。まず木造建築の鉄道省本庁舎が焼け落ちてしまいます。隣接する北部収容線の客車にも火が回り始めました。

「東京駅の存亡は、東京車掌室の死守にあり!」

 吉田十一(そいち)駅長のこの命により、東京駅員による決死の消火活動が開始されます。北部収容線の客車が燃えれば東京車掌室に延焼し、そうなると隣接するホーム上屋に火が移り、赤煉瓦駅舎も全焼の危機となるためです。

ホームの屋根落ち火の手も 東京駅と関東大震災 犠牲者ゼロにした駅員の神対応

屋根が落ちた東京駅第3ホーム(画像:『関東地方大震火災写真帖』)。

 当時の客車には、屋根の部分に車内手洗い用に使う水タンクがありました。駅員は客車の屋根にのぼりタンクの水をバケツに移し、それを猛火が迫る建物や客車へ盛んに浴びせかけます。連結手(車両の連結分離係)は全身に水をかぶるや否や線路を走り出し、無事な車両を切り離すために燃え上がる車両に近づいていきます。夜で暗いのに加え、煙でよく見えず、吹き荒れる風で音もよく聞こえない中、分岐器を作動させる転轍手も大声を出しながら線路を行き交います。

 最初は避難させる客車を機関車で引き出していましたが、次第に数名の人力による手押しで客車を動かしていくようになりました。

 こうして格闘すること4時間。夜12時頃に火の手は収まり、東京駅は延焼を食い止められました。旅客ホームも赤煉瓦駅舎も無事で、駅構内で焼失した車両は48両に留めることができました。

 東京駅を救ったのは、いわばマニュアルにない事態での駅員たちの行動でした。震災に対しては日ごろの備えがもちろん重要です。それと共に、可能な限りの想像力を働かせた防災準備が必要なことも教えてくれます。

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