根本陸夫外伝~証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実

連載第4回

証言者・愛甲猛(4)

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 プロ球団・西武ライオンズと、同じ西武グループの社会人チーム・プリンスホテルが共存し始めた1970年代末から80年代初頭。西武監督と管理部長を兼任する根本陸夫を裏で動かしていたのが、プリンスホテル総支配人の幅敏弘(はば・としひろ)だった。

幅はプリンスのチーム立ち上げに際し、独自の人脈を生かして選手のスカウトを担当。同時に西武の新人獲得にも暗躍する、いわばフィクサーだった。

愛甲猛が見た西武黄金期を築いた最強タッグ「完全に任侠映画の世...の画像はこちら >>
 そのなかで80年の9月、幅は同年のドラフト上位指名候補だった横浜高の愛甲猛に接触。当初は愛甲をプリンスに入社させ、いずれドラフト外で西武に"トンネル入団"させるつもりだった。が、西武のドラフト戦略の影響で断念。ロッテに1位指名された愛甲はそのままロッテに入団することになった。

 一方、5歳の時から母子家庭に育った愛甲にとって幅が父親代わりとなり、幅家と家族ぐるみのつき合いをするうち、「オヤジ」と呼ぶ間柄になった。それゆえ、根本に会う機会もあったから、「根本さんとオヤジと、ふたりのタッグが西武という球団を強くしていったと思う」と述懐する。実際、根本と幅が並ぶシーンに遭遇したこともある愛甲に、その関係性を聞いた。

「池袋のサンシャインプリンスの部屋で食事していた時のことです。オヤジが一緒にいて、僕がステーキを食べていたら、うしろからいきなり『なんだ、美味そうな肉、食ってんなぁ』って言いながら部屋に入ってきたのが根本さんでした。それでオヤジのところへ行って、何かボソボソ耳元で囁いていて......。

その絵面がもう、完全に任侠映画の世界なんです(笑)。お互いにしかめっ面してしゃべっているし、なおさら、怖いなあ、と思って」

 太っ腹な性格で、まさに任侠の親分のような人間だった幅は、プリンスの社員の間で恐れられていた。この幅のところへ、ロッテに入団した81年以降も愛甲は遊びに行く。そこでまた根本に会った時、「おまえのところの村田がオレんとこに来たぞ」と言われた。誰かと思えば、チームの先輩である村田兆治だった。はたまた幅からは「江夏が根本んとこに来てたぞ」とも聞かされた。

村田も江夏豊も、チームの垣根を越えて根本に相談しに来ていたという。

「口が堅くて、絶対に口外しない根本さんだから、他球団の選手にも信頼されていたんでしょう。僕の顔を見るといつもニコニコして、ちょっと猫背気味で、下から見上げるようにしゃべるんですよね。『おまえ、元気してんのか?』って。管理部長になってからはよく二軍も視察されたそうですけど、僕がファームの試合に出ていた頃、根本さん、たまに球場にいました。顔を見るとやっぱりニコッとして、含み笑いをするんです。

で、『オヤジは元気にしてるか? 連絡してるのか?』って、いつも幅さんのことを気遣っていました」

 4歳年上の根本でさえ、幅のことを「オヤジ」と呼んでいたのも、当時の自分にはできなかった仕事を裏で遂行できる人材だったからに違いない。さらには西武グループ総帥にして球団オーナー、堤義明との関係性もある。堤はプリンスホテル社長でもあったから、根本がオーナーの意向を知りたいとき、立場が格段に近い総支配人の幅は頼りになったことだろう。

 その点、プリンスの監督を務める前から堤と親密な関係にあった石山建一によれば、「最初の頃、根本さんはオーナーの前でビビっていた」という。それだけに堤がどう考えているか見えないとき、根本は石山にいろいろと聞きに来た。そういう意味で石山は堤と根本の間に入っていたのだが、それは幅も同様だった。

愛甲はそんな関係性を「ふたりのタッグ」と表現したのだ。

「西武がドラフトで誰を指名するとか、ドラフト外で誰を獲るとか、オヤジが平然と言っていたのは、要はそれだけの権限を堤さんからもらっていたから。新人補強にかかるお金に関しても、ほとんど事後報告だったんじゃないですかね。『おまえに任せているから』と言われていて。だから、堤さんと根本さんの間にオヤジがいた、というのはそのとおりだと思います」

 過去に、堤はプリンスとライオンズの運営についてのインタビューで、自らが社長のプリンスは「直轄」、ライオンズは「球団社長に任せてある」と語っていた。そして、チームづくりに関しては、根本監督が球団社長から全権を任されているのか? と尋ねられると、堤はこう答えた。

「だから、それは私が決めるんです。球団の社長はこういうことをやりなさい、監督はこういうことをやりなさい、と。監督の下にはスカウトがいる、コーチがいる、そのスカウトとコーチの人事権は監督にある。これは支配人と同じです、機構的には」

 監督の話から「支配人」が出てくるのは何とも象徴的だが、当時、表向き、根本を後押ししたのは球団運営実務のトップに立つ戸田博之だった。戸田は「西武グループのナンバースリー」といわれ、堤の考えを知り抜いた参謀タイプ。それでも球界の内情には詳しくなかったため、幅が裏で動く必要があったのだろう。

 では、それだけの存在だった幅の名が表に出なかったのはなぜなのか。プロが恐れたプリンスのスカウト網については再三マスコミに取り上げられたが、幅敏弘という名前が出たことはまったくなかった。その理由を愛甲に聞く。

「オヤジは絶対に『自分が表に出よう』という人ではないんです。だから当時、プリンスにいた人でオヤジを知らない人はいないし、プリンスの選手でも知らない人はいないんだけど、その人がフィクサーだったと知っている人は少ないんです。それはやはり、オヤジがあくまでも根本さんをトップに置いて動かす、という形をとったからでしょう。しかも『じつは自分はその上にいますよ』という素振りも一切、見せない人でしたから」

 根本自身、旧制中学時代から裏で動くことを好む男だったが、幅も同好の士だったということか──。プリンスのホテルマンだった時、幅の目の前で直立不動になった経験もある石毛宏典は西武入団後、根本を「オヤジ」と呼ぶ信奉者となった。その石毛によれば、「幅さんはべらんめえ調の人だったから、そこが根本さんと合ったんじゃないかな」とのこと。そして「あらためて思い出しても、ふたりはよく似ていました」と言う愛甲が続ける。

「根本さんは現役の時はそんなに活躍された方ではないですけど、その後、コーチ、監督になられた時はかなり努力されて、勉強もされたと思います。そのうえで、GMという言葉がまだ使われていなかった頃から、実質的にGMの仕事をしていたこと自体、先見の明ですよね。たぶんそこには、幅さん、オヤジの影響力もあったんじゃないかな、と少しは思います」

(つづく)

(=敬称略)