レアル・マドリード王者の品格2
レアル・マドリードは、ジネディーヌ・ジダン監督が率いる"世界選抜"のようなチームである。ウェールズ代表FWガレス・ベイルのように怪物的なポテンシャルを持った選手でさえ、ポジションは与えられない。
その点、ひとりのスターが優遇されることはない。クリスティアーノ・ロナウドでさえも、それは同じだった。去る者は追わず。そこにマドリディスモの本質はある。マドリディスモはマドリード主義と訳すことができるが、"堂々と戦って勝利をつかみ取る"という教義、伝統、あるいは信仰のようなものか。
どれだけ優れた英雄的選手であっても、マドリード以上の存在にはならない。しかし過去にひとりだけ、例外のアルゼンチン人選手がいた。
1950年代、アルフレッド"ドン"ディ・ステファノは、アルゼンチンの名門リーベルプレートでゴールを量産していた。最初に契約したのはバルセロナだった。そのままいけば、リオネル・メッシのさきがけとなるアルゼンチン人選手になっていたかもしれない。
しかし、政治力のあるマドリードはスペインサッカー連盟に、移籍に関するルール改正を働きかけ、その契約を白紙に戻させてしまう。話し合いにより、1年ごとに双方のクラブでプレーするという流れになった。一方、バルサは不当な決定に不満を持ち、不要論も上がり(ディ・ステファノはバルサの選手として出場した親善試合では不発だった。また、当時バルサにはラディスラオ・クバラというエースもいた)、結局、その保有権を手放した。
そしてディ・ステファノは、マドリードの英雄になった。
「金髪の矢」
その異名は、引き絞られた弓から放たれた矢のようなスピードと破壊力を形容していた。
1953-54シーズン、ディ・ステファノはリーガ・エスパニョーラデビューを飾り、マドリードに21年ぶりの優勝をもたらしている。それは、栄光の時代の幕開けだった。
特筆すべきは、ディ・ステファノが5度のチャンピオンズカップ決勝すべてで得点を挙げている点だろう。勝負強さ。それはその後、マドリードのエースの条件になった。
ディ・ステファノは試合をするたび、その輝きを増した。無事これ名馬でケガも少なかった。その丈夫さと逞しさは、同胞のメッシと共通するかもしれない。
27歳で入団しながら、リーガ歴代6位の得点数を誇り、10年連続で20得点以上を記録(カップ戦を含めて)。
「私が家を建てるとしよう」
ディ・ステファノは詩的な表現をする人で、しわがれた声でこんなたとえ話をした。
「家を建てるなら、大学にでも通って学び、コツを教えてもらわないと、ろくなものはできない。5年か、10年か、懸命に学んでも、たいしたものができるかどうかはわからない。だけど、家を壊すだけだったら、ハンマーひとつあればいい。どうにか壊すことはできるだろう。わかるか? 何かを創る力こそが尊ばれるべきなのだ」
その言葉はアルゼンチン訛りで、聞き取りにくかった。しかし、ゴールを生み出してきた矜持を強く感じさせた。
「私が偉大? マドリディスモという方舟があるだけさ。選ばれた者だけが乗れるが、やがて降りていく。誰であろうが、それは変わらない。マドリードの選手は何の言い訳もせず、何も求めず戦い続けるのだ」
2014年に88歳で亡くなったディ・ステファノは、マドリードの真理を語っている。その生き様は男っぽさを漂わせた。勝利を希求する雄姿が、そのままクラブの土台になった。
「マドリードでは、長い歴史の中でたくさんの英雄がプレーしてきた。しかし、誰もクラブ以上の存在ではない。ただひとり、ドン(ディ・スティファの)だけが違う。彼がマドリディスモを創造したんだ」
80年代、レアル・マドリードの主力として数々のタイトルを勝ち取ったMFミチェルの言葉は説得力がある。
ディ・ステファノは、レアル・マドリードに常勝の精神を根付かせた。それは歴史の始まりだった。"創造主"が降臨したのだ。
(つづく)