リーガに挑んだ日本人(4)

 2000年前後は、ヨーロッパが日本人サッカー選手を受け入れ始めた時代だった。欧州のクラブにとって、年齢が若ければ若いほど選手を"転売"して稼ぐことができる。

青田買いも始まっていた。

 1999年には、玉乃淳が15歳で、リーガ・エスパニョーラのトップ3の一角、アトレティコ・マドリードの下部組織に入団している。

久保建英がスペインに渡る20年前。アトレティコと契約した日本...の画像はこちら >>
 きっかけは、「1999年ナイキ・プレミアカップ」だった。東京ヴェルディジュニアユースの一員だった玉乃は、バルセロナで行なわれたこの大会で、レアル・マドリードのジュニアユースと一戦を交えている。カンプ・ノウの横にあったミニ・エスタディで、5000人近い観衆の声援を受けた。地元の人々にとって、宿敵マドリードと戦うチームの玉乃は"味方"だったのだ。


 玉乃はレアル・マドリードの選手たちをあざ笑うようなドリブルを見せた。東洋人を見下していたディフェンダーが、勝手の違いに慌てふためく姿がたまらなかった。アディショナルタイムには、わざとボールをキープし、力の違いを見せつけた。スタンドが地響きを起こすように湧きかえり、玉乃のアドレナリンで気分はハイになった。

「スペインは試合が盛り上がるし、"ここでやりたい"と思いました」

 玉乃はそう振り返っている。

 この試合で、彼はいくつかのオファーを受けた。

そして、環境のよさそうなアトレティコとの契約を決めている。久保建英(マジョルカ)がバルセロナに見初められたように、そのプレーが認められたのだ。

 玉乃は1年目から、攻撃の中心としてプレーした。8得点11アシスト。その後、欧州最高のストライカーのひとりになったフェルナンド・トーレスと2トップを組んだ試合もある。

「ジュン(玉乃)のことを忘れるはずがないよ! トーレスはユースやトップに召集されることが多かったから、僕がジュンと2トップを組んでいたのさ。
あいつのアシストでたくさん点を取った」

 当時のメンバーで、スペイン代表にもなったFWマヌ・デル・モラルはそう証言していた。1984、85年生まれの選手で構成されたチームは、無敵の強さを誇ったという。招待大会は連戦連勝で、中田英寿がローマにいた時代のユースに5-0で勝ったこともあった。

「ジュンは海外暮らしで、言葉や生活の違いは大変だったはずだ。けど、オープンな性格で、すぐにみんなと仲良くなったよ。寮でも学校でもよくつるんでいた。

なにより、選手として光るものを持っていたね。テクニックセンスは抜群。レアル・マドリードに勝ってリーグ優勝したんだけど、ジュンはびっくりするほどきれいなオーバーヘッドを決めてね。あれは、しばらくチーム内で話題だった」(マヌ)

 当時のチームは、精鋭ぞろいだった。飛び級でトップにも召集されたトーレスは別格にしても、マヌだけでなく1部で活躍することになる選手ばかり。MFガビは、アトレティコの永遠のキャプテンとして、数々の名勝負を繰り広げている。


 しかし、将来を嘱望された玉乃は、ユースからトップに昇格することができなかった。

 多くのスペイン人選手は、まずアトレティコBというセカンドチームに昇格する。そこをプロ選手の登竜門として、経験を重ね、実力をつけていった。ステップアップが必要で、トーレスのようにトップでいきなりエースというケースは例外的だ。

 一方、玉乃はアトレティコBには昇格できなかった。そのシーズン、アトレティコBは2部B(実質3部)に降格。

外国人枠の問題で、日本人である彼はプレーが許されなかったのだ。

「スペインにいた頃の自分はわがままで、すぐにふてくされていました。悪ぶっていましたが、本当はビビりだったと思いますよ」

 玉乃は正直に明かす。

「アトレティコで3年目ですかね。身長が170㎝手前で伸びなくなった。今まで通用していたドリブルが、(リーチ差で)長い足に遮られるようになりました。外国人選手は骨格も太くて、体を当てられると勝負にならないので、パス主体のプレーに切り替えました。もちろん、体質を改善しようとしましたよ。寮食ではなく、近くのレストランと月契約して特別メニューを作ってもらっていました。牛乳は1日2リットル飲んで、ヨーグルトもたくさん食べて。でも、下痢するだけでしたね。何をしても変わらなくて、周りはどんどん大きくなるのに、相当悩みました」

 その焦りはプレーを蝕んだ。

 監督と意見が合わず、衝突することが多くなっていた。ある日、練習をさぼって、無断でバルセロナに出かけたことがある。一度だけ対決したことのあるアンドレス・イニエスタのプレーに、進むべき答えを求めた。

 自分と同じ体形のイニエスタは、プロ選手とも渡り合っていた。

「結局、実力が足りなかったんだと思います」

 玉乃は言う。

「当時、自分もアトレティコBに上がっていれば......と思ったことはありました。でも、実際には上がっていないし、スペイン人だったとしても、上がれたかは怪しいですよ。自分は監督に口答えしていたし、いい子じゃなかったですから」

 真剣に戦った年月に、彼は言い訳をしなかった。

 この時代、同じように「ナイキ・プレミアカップ」でスカウトされ、エスパニョールに2人の日本人選手が入団している。しかし彼らもトップ昇格は遠かった。育成組織を経て、プロデビューする、その門戸が開くには、久保の出現まで20年近く待たなければならなかったのだ。
(つづく)