「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第11回 毒島章一・後編 (前編から読む>>)

 ファンの記憶も薄れつつあるなか、「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。"駒沢の暴れん坊"と呼ばれた荒っぽいチームの人望ある主将だった毒島章一(ぶすじま しょういち)さんは、通算1977安打を打っている。

区切りの2000本まで、あとわずか。いかにも惜しく思われる数字が途切れた真相が、淡々とした口調で明かされた。
 
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毒島章一の打撃フォーム。俊足好打で二塁打、三塁打を量産した(写真=時事フォト)

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 俊足も生かして1年目の1954年から100試合以上に出場した毒島さんは、打率.264。翌55年には規定打席に到達して.298、三塁打を12本も記録。初めて3割を超え、打率リーグ3位につけた57年には三塁打が13本でリーグトップとなり、サイクル安打も達成。
以降、61年、62年、66年と計4回も"三塁打王"になっている。やはり、足が速いからこそ三塁打を狙えたのか。

「そうなんですよ。だいたい、外野の間を抜く打球が多かったですからね。当時は外野の守備位置が全体に浅かったということもあります。それと、あんまりコーチャーのね、意見を聞かずに走ってたもんですからねぇ、へっへっへ。
打って、走ってて、初めっからもう自分で行くつもりでいますから。ちょっと外野がもたつきゃあ、サッと行くというような。躊躇せずにね。

 それに、あの当時はそういう、走る選手が少なかったです。内野ゴロっつったらファーストまで走んない、外野フライ上がったら走んない選手が多かったんですよ。だからわたしは、行けるチャンスが多かったんですね。
ゴロでも走ったですから」


 ゴロでも一塁まで全力で走った結果として、新たに水原茂監督が就任した61年の4月から62年8月にかけて、毒島さんは900打席連続無併殺打のパ・リーグ記録を作っている。この数字は2001年に金本知憲(広島)に破られるまで日本記録だった。

「その記録は知らなかったですけど、そういえば、確か水原さんに言われたことあったですね。『おまえ、ダブルプレーがないから安心してられるよな。1人残すからなあ』って。でも、わたしは別に、誰かに言われて走ってたんじゃないんです。

ただ楽しいからね」

 再び「楽しい」が出てきた。これは野球そのものが楽しい、ということなのだろうか。

「走るのが楽しい。陸上競技やるにしろ、なんにしろ。短距離が好きだったですね」

 俊足、守備での強肩も含め、自身の身体能力を発揮できることが「楽しい」のだ。しかしそのわりに、毒島さんの場合は盗塁が多くない。
だいたい年間に10個台だったのはなぜか。

「ふふっ。走んなかったんです。くたびれるからね、サイン無視して走んないんです。水原さんにも言われましたもん。『おまえ、オレがサイン出しても走んねえな』っつって。
あっはっは。失敗したような顔してね、スタートを」

 想定外の理由に笑うしかない。盗塁は有効だとは思っていなかったのだろうか。

「いや、有効だと思ってましたけど、あんまり意識して『盗塁しよう』って気がなかったから」

 首脳陣に従わない話が続き、「走るのが楽しい」と言いつつ、三塁打は狙っても盗塁には気が向かず、向かない理由もはっきりしない。若くして主将になり、任命した岩本義行はじめ各監督の信頼が厚く、誠実で真面目な選手だったことを踏まえると、意外過ぎて頭がくらくらする。

「だけど、考えてみりゃ、盗塁のサインなんか、出たのは水原さんが来てからです。井野川さん、岩本さんの頃はなかったんですよ。いろいろ細かいね、フォーメーションなんかをキチッと決めたりすることも」


 東映といえば、巨人で「名将」と呼ばれた水原監督が就任してチームが強化され、リーグ優勝、日本一になったと伝えられる。やはり、実績ある指揮官の方針によって東映の野球は大きく変わった、ということなのか。

「水原さんは勝負師というかな、勝つためにどうしたらいいか、ということがしっかりしてる。そういう人が来て初めて、チームワーク、勝つことに対する執念が出てきた感じでした。で、その上で細かい野球をやる。

 それまではわりかし自由で、大雑把な野球でね。あんまり規制がなかったですね。よそのチームだって、サインはスクイズと送りバントだけだったり。あとは全部、選手任せです。ヒットエンドランをやるにも、何をやるにも、全部、自分たちでやって」

 サインではなくアイコンタクト、目と目の合図で作戦を遂行する話は聞いたことがあった。

「そうそうそう。監督がいちいちサイン出さなくても、選手同士でね。今みたいにひとつひとつをサインプレーでやる、なんてことはあんまりなかった。水原さんが来る前は野球、ベースボールじゃなくて、"野遊び"っていうんですかね。そんな感じのプレーですよ。ただ力でもって勝負するような。でも選手同士、自分たちで決めてやるほうが大人の感覚の野球ですよね」

 にわかに口調が勢いづいていた。水原監督就任前と後、どちらがいい、という話ではない。しかし実際には、毒島さん自身、「大人の感覚の野球」をもっと楽しみたかったようだし、自分たちで決めてやりたいほうだったのだろう。

「そりゃもう、自分の感覚でね。今みたいにスコアラーのデータに頼るんじゃなくて。そのなかでキャッチャーとの駆け引きも面白かったし。自分の感覚ってのは強いですからね、データよりは。だから本当なら、ほかにクリーンアップを打つバッターがちゃんといたら、わたしは2番を打ちたかった。ランナーを置いた状態で、いろんなことできるでしょ?」


 毒島さんの打順は当初3番が多く、張本が4番に定着して以降は1番が増える。それが優勝した62年に3番に戻り、65年にはおもに5番で活躍。比較的、2番が多くなったのは白仁天、張本、大杉勝男のクリーンアップが確立した68年、もう晩年だった。

「まだ元気なときに2番を打ちたかったですね。『次走れよ、オレ転がすから』って、目で合図して。そういうことをやりたかったんですよ、いつも。まぁ、とうとうそれが、念願かなわなかったんですけどね」

 苦笑とともに一瞬、がくりと頭を下げていた。2番打者になれなくてこれほど落胆する選手はいるだろうか。2番打者が「念願」だった野球人はいるだろうか。中軸でランナーを還すよりも、2番で能動的にプレーをしているのを好んだ、ということだったのか。

「そんな感じですね。ランナーを進めて楽しんでるっていうようなね。たとえば、ノーアウトでランナーがセカンドにいたら、後ろは張本がいるからドラッグバントやって、一、三塁にしようとかね。内野安打にして。たまに2番に入るときはありましたから、入ったらいっつもそんなことを考えてたですね」

 楽しげに話していると思いきや、すぐに「それができなかったのが本当に残念です」という言葉が続いた。2番でここまで悔しがっているとは......と、あらためて意外に感じたとき、ならば記録もそうなのでは? と思い当たった。残念という意味では、2000本安打まであと少しだったことも同じではなかろうか。

「あんまり、気にならなかったですねえ。2000本というものに対してね。もう肘がダメで、ライトからセカンドまでほうれないんですよ、痛くて。バッティングにも影響して、バットも引っ張れなかったですから、もう全然ダメでした。

 それでその前、松木謙治郎さんが監督になったとき、わたしはコーチ兼任だったんですが、田宮さんがバッティングコーチをやられてて、『現役だったら現役一本、コーチだったらコーチ一本でやれ』って言われて。はじめちょっと迷ったんですよ。どうしようかなと」


 その後、70年のシーズン途中に松木監督が休養となると、田宮が代理監督。71年に田宮新監督が誕生するとき、毒島さんはあらためてコーチ専任を要請される。

「だいぶ、田宮さんに家へ引っ張っていかれたんですよ。『コーチに専任しろ』って。『もう、2000本打ったのと一緒じゃねえか』って言われて。ふふっ」

 苦笑につられてつい笑ってしまうが、田宮監督の口調を真似て発せられた声にショックを受けた。そんなにぶっきらぼうな言い方だったとは......。

「その程度の感覚なんです。今では絶対に考えられないでしょう。だけど当時は、『2000本打ってどうなんだ』って、そんな感じですもんね。『それがどうした!』っつって」

 70年シーズン終了時点の2000本安打達成者は川上哲治(元・巨人)、山内一弘(元・毎日ほか)、榎本喜八(元・毎日ほか)、野村克也(元・南海ほか)の4名と少ない。記録の価値を高める名球会の発足は78年だから、現在のようにマスコミがカウントダウンすることもなかった。

 時代背景を踏まえれば、田宮監督の酷な物言いもわからないでもない。しかし毒島さん自身、現役かコーチかで「ちょっと迷った」と言っている。迷ったのは、心のどこかに「大台に乗せたい」という願望があったからではなかろうか。

「いやあ、なかったですね、はっきり言って。1000本打ったときでも、1000本もきちゃったんだ。打てたなあって。1500のときも、ああ、なんだもう1500もきたのかって。そんな感じですもん」

 あらためて、名球会の存在の大きさを感じる。逆に、その存在がなければ、2000本達成がステイタスのようになる感覚もないということか。

「全然ないですね。周りも『2000本、2000本』って言わなかったですもん。続きですからね、要するに。積み重ねでそこまで行くわけですから」


 今や2000本安打はバッターにとってひとつの頂上になった感もある。よく「通過点」とも言われるが、頂上に近づいたならぜひ登りつめたいものとなり、周りも大いに期待する。が、毒島さんにとっては2000という数字に特別な価値はなく、周りから期待もされず、ヒットを積み重ねた結果として大台には近づいていた。それが毒島さんの1977安打だった。

「そういうことですね、はい。打席に入れば、いつも、ヒットを打つというのが頭にあってね」

1977安打で引退のスラッガーが「あと23」に執着しなかった真相

当時は「2000本安打がどうした?」という程度の感覚だったという

 最晩年の71年、毒島さんは事実上、ヘッドコーチ格となり、出場は4試合。守備のみの出場で一度も打席に立たず、現役を引退した。1977安打の真相が見え、「残り23本」という見方自体が勝手なのだと気づかされたが、僕の頭にはコーチ就任のことが引っかかっていた。

 田宮監督が毒島コーチを必要とした一方、毒島さん自身、この監督に付いていこうという気持ちはあったのだろうか。あったとすれば、それがコーチを引き受けた最大の理由だったのか。

「最初は、この人ならいいだろうなとは思いましたけど、わたしはもともと、この人に付いていこう、というのはないんです。監督、コーチ、先輩にしても。やっぱり、考え方、違いますもん。まあ、スカウトのときはね、根本さんが『部下の責任は全部オレが持つから』っていうような人で、すごいな、仕事がやりやすいなって思いましたけどね」

 [球界の寝業師]と呼ばれた根本陸夫が西武の監督兼管理部長だったとき以来、毒島さんは根本の腹心として仕えた。話はそこから、巨人入団が決まりかけた松沼兄弟を逆転で獲得した背景へとつながり、スカウト時代の思い出が語られた。


〈今は野球選手じゃなくていい、昔ちょっとやってたぐらいでいいから、とにかく能力に特徴のある選手を獲ってこい〉という根本の方針のもと、俊足で強肩の柔道選手を獲ろうとして獲れなかった。そのことが「いまだに残念」と明かす毒島さんは、2011年ドラフト7位で日本ハムに入団したソフトボール出身の捕手、大嶋匠に期待しているという。

「面白いですよ、ああいうのは。ああいうのを育てないといかんです。コーチも楽しいと思いますよ。育てる楽しみっていうのがね。まあ、そのコーチが自分の型にハマったことを教え過ぎなければいいんですけどね」

 ここでもまた同じ言葉、「楽しい」を聞く。毒島さんが野球を始めた原点から、面白い、楽しい、ということがすべてだったのではないかと思う。

「やっぱり、プレーですよ。データ、データの今のプロ野球みたいにね、あんまり杓子定規に考えると大変ですから」

「プレー」という言葉を噛み締めてみると、"野遊び"という毒島さんなりの表現が頭に浮かんだ。数字や情報に頼らず、自分の感覚を大事にする野球。

「そうそう。たとえば、バッティングということに対しても、わたしはプロへ入ってからも一度も教わった記憶がないんですよ。かえって、マネージャーにね、『今どうなってる?』って聞いてみたり、『前はこうだったよ』と言われたりするほうが役に立ったという。

 だからあんまり、人に頼っちゃいかんってことですよね。ふふっ。ましてこういう技術屋はね、自分で自分を作っていかないといかんから......。で、わたしはそのへんで少し、人と違ったかもしれません。さっき、『この人に付いていこうというのはない』って言いましたけど、逆にね、誰か付いていく人がいたら楽だったろうなと思いますから」

 孤高の人──。[ミスターフライヤーズ]は笑みを浮かべて言った。

「一匹狼っていうのは、今も昔も、プロ野球選手だったら、それは当然じゃないですか? わたしは狼ほどじゃなかったけど。一匹猫ぐらいで終わっちゃいましたけどね」

(2012年5月31日・取材)

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