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メスタージャ(バレンシア)

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 バレンシアと言えばオレンジ。さらに、ドロッとした雑炊風のパエリャも一度は食べたい名物料理である。

イベントでは「火祭り」だ。2003年3月19日は、その最終日だった。

 お祭りを盛り上げる爆竹が、街中のいたるところで、「ドカーン、ドカーン」と耳をつんざくばかりの爆裂音を上げていた。アーセナルサポーターを威嚇するつもりだったのか、メスタージャ界隈は特に酷く、気がつけば3メートル横で「ドカーン!」という状態で、こげ臭さが充満する無法地帯と化していた。これから始まる試合の観戦気分は、いやが上にも高揚するのだった。

 2002-03シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)2次リーグ。
火祭りの最終日は、アーセナルとの第1戦を0-0で折り返したバレンシアが、メスタージャで第2戦を戦う日と重なっていた。

 しかし、この日は世界的に見ると、CLどころではない1日だった。時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュが、イラクに対し開戦を宣言した日でもあったからだ。そのタイムリミットまで数時間という段に迫っていた。緊張感に包まれる国際情勢の中で、バレンシアの火祭りとCL2次リーグ、バレンシア対アーセナルは行なわれた。

 スペインはこの戦争を支援し、英国にいたっては、アメリカとともに参戦を表明していた。
メスタージャはイラクが先制攻撃を仕掛けるには恰好の舞台でもあった。この場に本物の爆弾が落ちても、爆竹と区別がつく人は誰もいないだろう。だが、メスタージャにやってきたバレンシアサポーター、アーセナルサポーターは、ともにそうした自覚など一切、持ち合わせていない様子だった。

 試合はバレンシアが2-1でアーセナルを破った。

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昨季はリーグ戦9位に終わったバレンシアの本拠地、メスタージャ

 3月のバレンシアは暖かい。この時期、バレンシアが暖かくなっていく様は東京の1カ月ほど先を行っていた。
イギリス人にとっては2、3カ月先を行く気候だった。アーセナルサポーターはTシャツに短パン姿でメスタージャにやってきた。日光を浴び、嬉しくて仕方がないといった感じで、陽の高いうちからビールをあおっていた。

 サポーター曰く、スペインはアウェー観戦の地として人気が高く、中でもバレンシアは1、2を争うのだという。それは日本人である筆者も同感だった。季候はいいし、食事も美味い。



 メスタージャは街中にある。そして界隈の繁華街は夜が遅い。23時に試合が終わっても、レストランでゆっくり夕食が愉しめる。サッカーだけで1日が終わらないところが、このスタジアムの魅力だ。

 その内部の魅力に目を向けるならば、客席は急傾斜だ。着席した瞬間、鋭い視角に仰天させられる。
35度以上なら「上々」。37度以上あれば「急傾斜」とは、筆者独自の分類になるが、メスタージャはそれ以上ある。40度に迫る欧州最強の視角だと思う。正面スタンドからバックスタンドを眺めると、壁に観衆がへばりついているように見える。

 ラファエル・ベニテスルが率いたバレンシアの当時のサッカーは、縦に速い一方で、サイドチェンジを駆使した展開力に富んでいた。ピッチを大きく使うそのサッカーは、鋭い視角を売りにするメスタージャの舞台によく映えた。
アルゼンチンからやってきた小兵のMF、パブロ・アイマールがそこに絡むと、お洒落度もアップした。

 マノーロさんが経営するバルもメスタージャのすぐ近くにある。スペイン代表の試合になると「エスパーニャ! ドンドンドン」と太鼓を叩きながら応援のリーダー役を務める名物おじさんだ。

 最初にその存在を知ったのは、1982年スペインW杯で、マノーロさんは大会期間中、スペイン各地をヒッチハイクで回りながら、スペイン戦が行なわれる会場に駆けつけるという毎日を送っていた。テレビカメラが応援団長の旅の道中を常に追いかけていたので、マノーロさんがいまどこにいるか、日本人であるこちらまで気になっていた記憶がある。

 マノーロさんはキックオフの笛とともにスタンドに入っていく。そしてタイムアップの笛とともにお店に戻る。バルの壁には、これまで応援観戦してきた代表戦の写真が、ところ狭しと貼られていた。

 メスタージャでは、スペイン代表戦もよく行なわれる。バレンシアが、民族問題が絡みやすいスペインにあって「中立地」というポジションにあるからだ。マドリードでも、バルセロナでも、バスクでもない場所というわけだ。

 マノーロさんの生まれは、サラゴサ近くにある地方都市ウエスカだ。現在、岡崎慎司がプレーしているあのウエスカである。そのマノーロさんがメスタージャの前でバーを構える理由も、そこが代表にとって中立地であるからかもしれない。

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 82年スペインW杯。スペイン代表は、当時、ルイス・カサノバという名前だったメスタージャで、旧ユーゴスラビアと対戦した。筆者はこの試合をビルバオのバルで、スペインに対して親近感を抱いているとは限らないバスク人とともに観戦していた。

 試合は2-1。スペイン人的には喜ぶべき結果に終わったが、バスク人の大半は試合の途中、無言でバルを後にした。主審の身贔屓すぎる判定が、スペイン最大の勝因だったからだ。

 ユーゴスラビアに先制点を奪われたスペインは、PK欲しさに、選手がペナルティエリアの1.5メートル手前からダイブした。デンマーク人の主審はこれにPKの判定を下すが、スペインのキッカーはキックを外してしまう。すると主審はGKが、PKを蹴る前に動いたとして、やり直しを命じたのだ。これはさすがに決まったが、こんな酷い判定は、それ以前もそれ以降も見たことはない。スペインが自国開催のこのW杯で勝利した試合は、このユーゴスラビア戦の1勝のみ。恥ずかしい結果に終わった。

 2002年日韓共催W杯。準々決勝対韓国戦でスペインは、誤審を主張した。しかし、82年大会のルイス・カサノバで起きた一件を知る者にとってこの判定は、天の配剤にしか見えなかった。日本と韓国がライバル関係にあることを知るスペイン人記者は、韓国戦の判定を持ち出し、「あれは酷かったよねー」と同意を求めてきたが、筆者が「82年のユーゴ戦の判定はもっと酷かった」と返答すれば、いきなり黙り込んでしまうのだった。

 日韓共催W杯を翌年に控えた2001年、マノーロさんはこんな悩みを打ち明けてくれた。

「『スペイン代表と一緒のチャーター便で行きませんか』と協会が打診してきたんだ。報道陣は一緒の飛行機で行くらしいんだけれど、それはマズいよね。一線を引かないと。でもひとりで行くとなると言葉もわからないし......」と、こちらに日本と韓国についてさまざまなことを訊ねてきた。

 その時、バレンシアのゴールを守っていたスペイン代表GKサンティアゴ・カニサレスは、日韓共催W杯に出場することができなかった。W杯直前、風呂場で香水の瓶を落とし、足をケガしたという不幸な話を耳にした時、頭をよぎったのは、その1年前に起きた出来事だった。

 2000-01シーズン、ミラノのジュゼッペ・メアッツァで行なわれるCL決勝に進出したバレンシアを取材するために、筆者は決勝戦直前までバレンシアに滞在していた。チームが翌日、ミラノに向かって出発するタイミングだったと記憶する。

 それに合わせてバレンシアを後にしようとしていた筆者は、名物のバレンシア式パエリヤを食べようと、名の知れたレストランを予約。時間通り訪れてみれば、ご主人がこう切り出してきた。「ウチのパエリヤ、どうしても食べたいですか?」と。

「実は、いまちょうどカニサレスから『ウチのパエリヤを食べてからミラノ(CL決勝)に行きたい。いまから家族で出かけたい』と電話が入っていて、満席だからって、断ろうと思っているけれど、万が一、あなたたちが譲ってくださるならと思って、一応、尋ねてみようと思いまして......」

 結局、ご主人はカニサレスに断りを入れ、筆者は無事、絶品のバレンシア式パエリヤを堪能することができた。だが2001年5月23日、ミラノのジュゼッペ・メアッツァで行なわれたCL決勝後、筆者は少なからず罪悪感に駆られることになる。

 CL決勝を戦う相手はバイエルンで、試合は1-1から延長PK戦にもつれ込んだ。試合の結果は、カニサレスとオリバー・カーンのGK対戦に委ねられることになった。PK戦は4-5でカーンに軍配が上がった。出発前、カニサレスがパエリヤをしっかり食べていれば、ひょっとしたら結果は逆になっていたのかもしれない。