10月に入り、今年もプロ野球に"別れの秋"がやってきた。毎年この時期に発表される現役引退や戦力外通告の報は、受け止める側を複雑な心境に置くものだ。

 驚き、寂寥、悲しみ、そして感謝----。

 秋風が吹く季節になると、勝負の世界の厳しさをあらためて感じさせられる。

 今年去りゆく者たちのなかで、とりわけ大きなニュースになったのが斎藤佑樹だった。2010年ドラフト1位で指名されて以来、11年間まとった日本ハムファイターズのユニフォームを脱ぐことを10月1日に発表した。

盟友・大石達也が語る斎藤佑樹の素顔。「どんなに叩かれてもマウ...の画像はこちら >>

早稲田大からともにドラフト1位でプロ入りした斎藤佑樹(写真右)と大石達也

「連絡をもらった時、多少の覚悟みたいなものがどこかにあったのか、驚くことはありませんでした」

 早稲田大学時代の盟友が下した決断について、大石達也は所属先の西武球団を通じ、至極冷静なコメントを残している。

「僕が現役引退する年くらいから、会えば『体どう?』という会話しかしてこなかったですからね。

その時からしんどいというか、ボロボロなんだろうなというのは感じていました。そういうこともあって、いずれこういう時がくるんだろうなと思っていたので、引退の報告があった時もそこまで驚くことはなかったですね」

 斎藤と同じ2010年ドラフト1位でプロ入りした大石は、2年前、先に現役人生に終止符を打った。その後は現役時代を過ごした西武の球団本部統括部ファーム・育成グループスタッフに就任し、ニューヨーク・メッツへの短期留学などを経て、今季から二軍投手コーチを務めている。

 イースタンリーグの試合などで何度か斎藤と顔を合わせることもあったが、ここでも会話は「体どう?」というものばかりだった。右肘靭帯を断裂しながら痛みに耐えて右腕を振り、一軍復帰を目指す姿は「しんどいだろうな」と映った。

 一般的に肘の靭帯を断裂したピッチャーの多くは、トミー・ジョン手術(内側側副靭帯再建術)が必要になる。

しかし、この術式で投手が右肘にメスを入れると復帰の目安は早くて9カ月、普通は1年を超える場合が多い。

 しかし、今年33歳になった斎藤に残された時間は少なく、痛みに耐えてマウンドに立ち続けた。大石自身、現役最後は右肩に痛みを感じながら投げていたから、斎藤の覚悟がよく伝わってきたはずだ。

 ともにドラフト1位でプロ入りした2人の出会いは、大学時代にさかのぼる。福岡大大濠高校から早稲田大学に進んだ大石にとって、早稲田実業の斎藤はスーパースターだった。

「これが斎藤佑樹か。

あっ、本物だ!」

 高校3年の夏に日本中を沸かせた"ハンカチ王子"に初めて会うと、テレビで見るより小さく感じた。それほど、画面越しの活躍が眩しく映っていたのだろう。

 早大野球部に遊撃手として入った大石はすぐにケガをし、首脳陣からピッチャーたちと一緒に走っておくように言われた。その流れで投球練習を見に行くと、斎藤のすごさが伝わってきた。真っすぐは速く、スライダーやツーシームを器用に操っていた。

 同期には福井優也(楽天)もいて、大石は2人のピッチングを見ているうちに込み上げてくるものがあった。

自身も高校時代はノーヒット・ノーランを記録、最速145キロを投げ、大学でも投手でやりたいと思っていた。應武篤良監督から野手として評価されショートにコンバートされたが、正直な気持ちを伝え、再びマウンドに戻った。

「早稲田に入って斎藤に出会ってなければ、僕はそのままプロに行けたかもわかりません」

 大石は斎藤から投手として必要な技術を学ぶと同時に、上の世界へ上り詰めるために不可欠な姿勢を教わった。

「斎藤は本当に情報量がすごかったです。いろんなことを知っていて、『これだけの投手でもいろんなことを考えてやるんだ』と思い知らされました。僕はどちらかというと、あまり考えずにやっていた人間だったので......。

しかも斎藤は、聞くとちゃんと教えてくれるんです。ピッチングでは体のどこをどう動かせばいいか、こと細かく知っている。それを頭で理解して、人に伝えることもできます」

 感覚派の大石と、理論派の斎藤。互いをそう認識し、切磋琢磨した。大石は斎藤のように器用な投球術を求めた時期もあるが、自分にはできないと悟った。むしろ、独自の武器を磨いたほうがいい。

角度のあるストレートを武器にする守護神となり、先発の斎藤や福井からバトンを受け継ぐ役割を担った。そして「豊作」と言われた2010年のドラフトでは、最多の6球団から指名を受けるまでになった。

 9年間のプロ生活では度重なる故障もあり、期待されたほどの成績を残せたわけではない。それでも球団にとって必要な人材とされ、引退後は西武で指導者の道を歩んでいる。

 ファームで明日のエースや守護神を目指す若手たちと接しながら、大石はあらためて斎藤のすごさについて思い出すことがある。

「過去を振り返った時、斎藤みたいにピッチングの感覚を言葉にできれば、今、もっと楽だったと思います。コーチとして指導していて、ピッチングフォームの動きのなかで説明しないといけないのですが、うまく言葉にするのが一番難しいと感じている部分ですね。選手によって理解度も変わってきますし、いろんなパターンの投げ方もあります。そこを言葉で言うのか、手本を見せるのか。どのようにすればその選手に伝わるのか、その方法を猛勉強中です」

 早稲田の同期として4年間をすごし、プロではともに"金の卵"と大きな注目を集めたが、大石は斎藤をライバルと捉えたことは一度もない。斎藤が活躍すればうれしいし、自分も頑張らなければいけないと刺激を受ける。そうした仲間との関係性は、今後も変わらないと思っている。 

 では、最も間近で見てきた大石にとって、斎藤佑樹が野球界に残した功績をどう感じているだろうか。

「なんて言ったらいいんだろう......。すごいとしか言いようがないですね。高校、大学で優勝して、プロに入っても最初はそれなりに投げていましたけど、それからは思うような結果を残せてないなかでも、ずっと新聞などで取り上げられていました。それだけの注目度のなかでやり続けるというのは、想像できないくらい大変だったと思います。そういう部分でのメンタルの強さはすごいですし、どんなに叩かれても、厳しい言葉をかけられても最後まであきらめなかった。もう一度、一軍のマウンドを目指したのは斎藤だからできたと思います」

 大石から見ると、普段の斎藤は仲間思いで、優しいヤツだった。あんなにスーパースターと騒がれながら、尖ったところがまるでない。むしろ、穏やかな男だった。

 それがマウンドに上がると、表情は冷静ながら、内面は燃え上がっているように映った。相手打者の胸の内を読み、振ってこないと見れば、ど真ん中に投げ込んでいく。大胆不敵な男だった。

 10月17日のオリックス戦。本拠地の札幌ドームで、斎藤は現役ラストのマウンドに登る。

「最後なので、体はボロボロでしょうけど、斎藤らしく思いきり投げてほしい」

 野球に対して常に真剣に向き合ってきた盟友が、投手人生の最後、札幌ドームのマウンドに上がる。大石は、その勇姿を楽しみにしている。