連載「斎藤佑樹野球の旅~ハンカチ王子の告白」第50回

 早稲田魂、見せてやれ──ファイターズの吉井理人ピッチングコーチ(当時/現・マリーンズ監督)はピンチを背負った斎藤佑樹のもとへ駆け寄ると、マウンド上でそう檄を飛ばした。2016年、斎藤佑樹にようやく巡ってきたそのシーズンの初先発。

6月29日の札幌ドームで、斎藤はライオンズを相手に粘りのピッチングを続けていた。

斎藤佑樹「ストライクを取る感覚を失ってしまった」 崖っぷちの...の画像はこちら >>

【ストライクを取る感覚を完全に失っていた】

 2対2で迎えた5回、ツーアウト2塁でした。バッターボックスには3番の森友哉が入りました。この場面で森を歩かせた直後、ピッチャー交代となってしまいました。あとから思えば、森を歩かせたら交代というのがわかっていたら、初球の入り球は真っすぐじゃなくてフォークだったかもしれません。

 あの年は5月に一軍で中継ぎを務めるようになって、フォークでカウントを取り、ストレートをインコースへ突っ込むピッチングで結果を出していました。森に対してもそういう配球で勝負したかったという悔いがあったんです。

あの日はフォークのコントロールもよかったし、ストレートをインコースの胸元へ投げ込めていました。逃げないピッチングを実践できていたんです。

 でも、まだまだボールの強さが足りていない自覚はありました。だから真っすぐをカウントボールにしようにするストライクとボールの出し入れをしながら、コーナーいっぱいを突くコントロールで勝負しなければならなくなる。そうすると、初球から思い切ってストライクゾーンに投げ込めなくなります。

 あの時もそうでした。

初球、森に真っすぐを投げた時、きわどいところを狙ってボールが先行した......結局は、ずっとそのジレンマのなかで戦っていたような気がします。

 札幌ドームのお客さんは4回途中でマウンドを下りた時、拍手をしてくれました。5回を投げ切ることができなかったのに、栗山(英樹)監督も「頑張った」とコメントしてくれる。そのくらいで目一杯のピッチングだという満足感に包まれる空気に慣れてしまうのが僕には怖かったんでしょうね。

 先発として勝負する以上、5回でオッケーみたいなノリにならないよう、6回、7回を当たり前のように投げ切らなければと強く意識していた記憶はあります。2012年の終わりに肩を痛めてからそういうハードルのようなものが下がっているなと感じていただけに、それをこれ以上、下げたくないという意地はありました。

 ただ、2014年は2勝、2015年は1勝に終わって、そういう状況から一刻も早く抜け出さなきゃいけないという焦りもありました。思えば、アマチュアの頃は仲間のおかげもあって、勝つことの難しさを深く考えたことのない野球人生だった。だからこそ、勝つことの難しさと向き合う日々はキツかった......勝つことだけでなく、ストライクを取ることさえ、本当に難しくなっていたんです。

 ストライクの取り方は3つあると言われるなかで、自分はどうやってストライクを取ればいいのかわからなくなっていた。空振り、ファウル、見逃し......そのどれでもストライクを稼げないんです。だったらもう、ツーシームとかカットボールで内野ゴロを打たせればいいのかな、という発想になっていたと思います。

あの頃は、ストライクを取れるという感覚を完全に失っていました。

【データ導入で世界が変わった】

 それでも、ごくたまに指にかかる感じが出ることがあったんです。そういうボールを投げられる時には、ストライクを取ることも勝つことも簡単に思える。指にかかる時と、そうでない時の差が激しすぎて、投げてみないとわからない感じが続きました。指にかかるとコントロールにも自信が出てくるし、かからないと自分のフォームさえわからなくなる。終わってみれば2016年は先発が......3試合でしたか。リリーフが8試合で、0勝1敗。

そしてチームはリーグ優勝を成し遂げました。

 敵地でのライオンズ戦で優勝を決めた時、僕も西武ドームに呼ばれていました。そのシーズン、一度でも一軍で投げていたピッチャーは声をかけてもらっていたんですが、やっぱり自分が戦力になっていないことはわかっていましたし、活躍していないなかでの優勝というのは正直、複雑な気持ちでした。

 高校野球や大学野球なら、たとえ自分がチームの真ん中にいなくても優勝を喜べると思います。でも、プロは活躍することで評価されることもある。言い換えれば、プロの選手の仕事はまず個人としての数字を出すことであって、チームを勝たせるのは監督の仕事という考え方もあります。

自分がまったく数字を出せなかったなかでの優勝でしたから、もどかしい思いはありましたね。

 日本シリーズでもメンバーには入れませんでしたが、日本一の瞬間はバックアップ要員として広島にいました。試合はベンチ裏で見ていましたが、周りからの「おめでとう」の言葉を素直に受けとることができない自分がいました。それでも心が折れることはなかったんです。なぜならこの時期、僕はピッチャーとしての新たな可能性を見出すツールに出会っていたからでした。

 それがデータです。

 トラックマンがチームに入ってきて、自分のボールの特徴が数字で見られるようになったことで、野球選手としてのフェーズが変わって、すごく楽しくなりました。抑えるということはピッチャーにとってうれしいことですけど、どうやって抑えたのかが目に見えてわかるのはもっとうれしい。

 時代によって抑え方が変わったりして、それも興味深い。僕の強さがないボールでも、違うアプローチの仕方が出てくると思ったんです。そうか、今までは気づかなかったけど、これが得意な球種だったのかとか、こういう感覚で投げた時にこういう数値のボールが投げられていたのかとか、発見だらけ。今まで自分のなかでぼんやり考えていたことが数値になって出てくるんです。もう、おもしろくておもしろくて、野球に取り組む気持ちがデータのおかげでガラッと変わりました。

【背番号が18から1へ】

 僕のボールは、ほかのピッチャーよりも抜きん出ているわけではありません。でも、僕の特徴と言える軌道、回転、スピードのボールはありました。

 バッターというのは、過去の経験からきっとこういうボールが来るだろうと予測してバットを出します。つまり、平均値をイメージしているんです。だから何かひとつでも平均値から外して、戦略を立てれれば、それが特徴になります。

 たとえば僕はスライダーが武器だと思っていましたが、僕のスライダーは極めて平均的な数値で、むしろツーシームやカットボールのほうが平均値から外れていました。だったらツーシームとカットボールでバットの芯を外してゴロを打たせるピッチングは間違っていないのじゃないかと思うようになりました。

 そうすれば、ワンバウンドを投げちゃいけないとか、空振りかファウルか、見逃しのどれかでストライクを取らなきゃって、汲々とする必要もなくなります。ゴロを打たせようと思ったら、ストライクゾーンに投げるストレスがなくなったんです。僕にとって詳細なデータの登場は野球への向き合い方を変えてくれるものでした。

 そしてその年のオフ、背番号を変えることになります。活躍できなくて悔しくて、もうクビになるかもしれないなと覚悟する気持ちもありました。そんな時に背番号の話になって、僕も"球界のエースナンバー"と言われる18番を背負う資格はないと思っていましたし、何かしらの覚悟を決めなきゃという気持ちもありましたから、思い切って変えましょうということになったんです。

 するとチームの人が「高校時代に戻そう」と言ってくれて、背番号1を提示してくれました。それはもう、めちゃくちゃうれしかったし、クビにならなかったこととともに、感謝しかありませんでした。そこまで期待をしてくれていたのかとあらためて感動させられましたし、行き詰まっていた僕を何とか活躍させる方法をチームとして必死で考えてくれていることを肌で感じました。

 超スパルタで泥まみれになってガムシャラに練習しろ、という方法ではなく、高校時代の気持ちや感覚を取り戻せたら斎藤佑樹は輝けるはずだ、と信じてくれたことがありがたかった。だから背番号1には今でも思い入れがあります。高校野球の栄光の番号でもあるし、プロ野球ですごく苦しんだ時代の番号でもある......野球人としての苦楽が詰まった背番号だから、僕にとって1番は特別なんです。

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 プロ7年目を前に、斎藤は背番号1番をつけることになった。プロ6年目の斎藤は1勝もできず、崖っぷちに立たされていた。そんななか、斎藤に与えられた背番号1は今後への期待とともに、これがラストチャンスだという最後通牒にも映った。しかし、背番号1は斎藤から悲壮感を奪い去った。どうせなら楽しく野球をやろうという気持ちを新たにするきっかけとなったのだ。そしてその手助けとなったのが、進化し続けるデータとのさらなる出会いだったのである。

つづく