1992年の猛虎伝~阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:野田浩司(後編)

前編:コーチとの確執で一軍昇格を拒否した野田浩司の記事はこちら>>

 右ヒジ痛の影響で不振だった1992年、5月半ばに二軍落ちした阪神・野田浩司。大石清投手コーチとの確執もあり、ヒジが完治して調子が上向いても一軍昇格を拒否していた。

そのなかで6月末、野田のもとに中村勝広監督から手紙が届く──。当時の状況を野田に聞く。

「もう我慢の限界だ」指揮官からの手紙に発奮も…阪神の救世主と...の画像はこちら >>

92年7月に月間MVPを獲得した野田浩司

指揮官からの「もう我慢の限界だ」

「手紙にはね、<もう我慢の限界だ。帰って来い。ファームでなんぼ投げたって一緒なんだから。おまえの力が今は必要な時期だから、頼む、帰って来い>というようなことが書いてありまして。全部読んだあと、一軍に上げてもらいました」

 6月30日の巨人戦、3対11と大敗した試合。

44日間の二軍暮らしを経て復帰した野田は、8回に五番手で登板。きっちり三者凡退に抑えると、翌7月1日の巨人戦、0対4の劣勢で5回から2イニング。同3日の広島戦で1イニング、同5日の広島戦で2イニング、すべて無失点に抑えていたが、チームはその間、6連敗を喫していた。

「連敗はしましたけど、僕が一軍に戻った時は、『絶対いけるやろう』っていう雰囲気になっていました。僕自身、入団して1年目から最下位、5位、最下位、最下位でしたから、ほとんどチームがいい時を知らなかったんです。だから92年っていうのは"水を得た魚"のように、勝つたびに『えっ? こんなに強いの?』って思っていました」

 7月7日、チームは横浜大洋に0対1で敗れて7連敗となり、ついに借金生活となった。

守護神の田村勤が抑えに失敗した試合から負けが続き、その田村は左ヒジ痛で離脱。ファンの間では「やっぱり今年もダメか......」といった声が出始めていた。

 ところが、そこで連敗を止めたのが野田だった。翌8日の横浜大洋戦で先発し、5安打4奪三振で無四球完封。立ち上がりから真っすぐが走って前半は押しまくり、後半は変化球中心に切り替えて104球を投げきった。紙面の見出しには『出た救世主』とある。

「それまではなにもしてませんからね。ファームでのんびりしてたわけだし。ただ、春先から頑張って投げてきたピッチャー陣が、ちょうど疲れてくる頃に戻れたのはよかったです。チームとしても一番悪い時に先発で勝てたことも」

 試合後、中村監督は「野田がようやく、孝行してくれたよ。今後の大きな戦力になる。連敗中はずっと、去年の悪い時のことを思い出していたよ」と言った。

実際、野田は「大きな戦力」となり、次の7月15日、ヤクルト戦は5安打2四球11奪三振で9回を無失点に抑え、2試合連続の完封勝利。チームは前半戦を勝ち越して折り返すことが決まった。

「その試合が終わったあとでした。中村さんからまた手紙をもらって、お金ももらいました(笑)。監督賞ですね。手紙には<ありがとう>って書いてあった。

温厚そうに見えて、けっこうきついところもある方でしたけど、あの年はそんなことがありましたね」

4連続完投勝利で月間MVP

 球宴明け、7月25日の中日戦。先発した野田は7安打4奪三振2四球1失点という内容で完投勝利。大石コーチは試合後「フォークでいくと見せかけて真っすぐとか、抜いた球もうまく使うなど工夫したピッチングだった。彼には厳しい言葉を言い続けてきたが、やっと『困ったらフォーク』という姿から脱却してくれた」と言って称えた。

 さらに7月31日、横浜大洋戦は5安打5奪三振1四球で完封。これで野田は4試合連続完投勝利となり、阪神では山本和行(81年)以来。また月間3完封も記録し、阪神では江夏豊(73年)以来だった。

 3連続完投勝利の時点で、月間MVPが見えていた。それだけに野田は31日の試合前、大石コーチから「仲田(幸司)も湯舟(敏郎)も獲ったんだから、おまえも獲れよ」とプレッシャーをかけられていた。仲田は4月、湯舟は6月に月間MVPを受賞していた。

「月間MVPについては、大石さんがコーチ会議で言ってくれたそうなんです。『なんとか野田に獲らせてくれ』って。ちょっとまだ僕との関係はギクシャクしてたんだけどね(笑)。それはともかく、4連続完投の時は本当に調子がよくて、心技体とも充実していました。でも、その時に比べたら、8月、9月は調子を落としていたんです」

 自身初の月間MVPを獲得したあと、8月は完投で2勝を挙げ、負けが2つ。9月は1日の中日戦に完投で8勝目を挙げたが、以降、勝てなくなった。8日の広島戦は6回8失点、13日のヤクルト戦は3回4失点、25日のヤクルト戦も3回4失点と、先発の役割も果たせていない。10月1日の中日戦は6回1失点と試合をつくったが、打線の援護がなく、最後は五番手の猪俣隆が打たれてサヨナラ負けを喫した。

「一番悔いが残るのは10月9日のナゴヤ球場です。その前の神宮2連戦で1勝すれば、優勝へタイガースはかなり有利でした。ところが1戦目はマイク(仲田)さんが打たれて負けて、2戦目。僕は次の日の先発だったので、先に名古屋に移動していました。新幹線のなかでポケットラジオをつけて聴いていました。そしたら負けて......。なにがなんでも中日に勝たなきゃいけなかったんです」

 8日の試合が雨天中止となり、9日に順延。中日にとってはシーズン最終戦だけに、高木守道監督は特別な投手起用を事前に明かしていた。中継ぎの鹿島忠を「きれいなマウンドで投げさせてやりたい」と先発させ、あとは山本昌広(=山本昌)、山田喜久夫、今中慎二、与田剛。主力投手による継投を伝え聞いた中村監督は「やりづらいな。もっと普通に戦うほうがいいんだが」と言った。

「いいピッチャーが5人きて、ビターッと抑えられて。打線全体にガチガチだったと思います。僕はプレッシャーを感じることなく、調子もよかったんですが、前原(博之)って同級生のヤツにホームランを打たれた。大石さんに『有効だから』と言われて覚えた"抜いた真っすぐ"でした。結局、これが重すぎる1点になって......0対1で負けちゃったんですよね」

まさかのトレード通告

 優勝はできなかったが、85年の日本一以来の"虎フィーバー"になり、選手たちは忙しいオフを過ごした。秋季キャンプを経て、体のオーバホールを済ませた野田も、イベントに参加するなど多忙だった。ようやく時間ができた12月半ば、妻と旅行に出かけて帰宅すると、まだ携帯電話がなかった当時、留守番電話には球団フロントからのメッセージが何件も入っていた。

「『えっ、何?』って思って。最初、『監督と会ってくれ』ってことだったので、もしかしたら『来年もう1回、抑えをやってくれ』ってことかなと。田村さんがヒジに不安があったので。それで中村さんと会う約束をしたあとにすぐ球団フロントから電話がかかってきて、一瞬のうちに『会う人が社長に変わったから』って。うわ、これはもうトレードしかないやんか......と。ショックでした」

 全くの寝耳に水だった。兵庫・芦屋のホテルに呼び出されて球団社長と面会すると、「打線が打てなくて優勝できなかったから、打てる人がほしい」との説明を受け、オリックスのベテラン好打者の松永浩美とのトレードを通告された。野田は「一日、持ち帰らせてください」と願い出た。翌朝、起きて頬をつまんだ。痛かったので夢ではなく、受け入れるしかなかった。

「ちょうど年末だったんで、そこはよかったんです。年明けで気持ちが切り替わりましたから。新天地でやったろうじゃないか、と。もう家を買ってたんですけど、住まいも移して。オリックスには知っている人がいたし、同じ関西圏っていうのもよかったです」

 93年、野田は17勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。同年から3年連続2ケタ勝利を挙げるなど先発として活躍を続け、95年のリーグ優勝、96年の日本一に貢献。95年には1試合19奪三振の日本記録を達成した。移籍で大きく花開いた投手人生は右肘故障もあって99年で幕を閉じたが、12年間の現役生活のなか、92年はどう位置づけられるだろうか。

「まずはその年に限らず、タイガースでの5年間で自分は成長させてもらったし、引退の時は大石さんに電話したんです。『いろいろありましたけど、大石さんに教えてもらったおかげで、自分で身についたものがあって、野球人生をまっとうできました』って言わせてもらって。

 そして92年のあの優勝争い。あの大観衆に注目されるなかでできたっていうのも、ひとつの財産になったと思うし、そこで悔しさを味わった。これもひとつ、自分自身の経験としては、オリックスで優勝できたことにつながっていると思います」

(=敬称略)