1992年の猛虎伝~阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:田村勤(前編)

 チーム防御率2.90は12球団唯一の2点台──。1992年の阪神が快進撃した最大の要因は、安定した投手陣だった。

先発陣は若手中心だったなか、順調に勝ち星を得て自信をつけた背景には、リリーフ陣の"奮投"があった。とくに光ったのは左腕・田村勤の活躍である。故障のため7月に離脱したが、それまで守護神としてチーム全体を支えた功績は大きい。

 田村は静岡・島田高から駒澤大を経て、88年に社会人の本田技研(現・Honda)に入社。島田高では県ベスト8が最高、大学では通算29試合に登板して3勝ながら、快速球が魅力だった。その球威を生み出す左サイドハンドのフォームは、いかにしてつくられたのか。

プロ入り前の経緯から田村に聞く。

元阪神・田村勤はプロ初登板で被弾し、首脳陣の交代要請を無視。...の画像はこちら >>

1年目から50試合に登板した田村勤

入団1年目のキャンプで肉離れ

「サイドスローにしたのは社会人に入ってからです。上から投げている時、球が速くて期待もされた反面、コントロールが悪くて。調子がいい時は抑えてましたけど、試合を壊すときが多かったので、『おまえ、サイドのほうが合ってるんじゃないか?』ってコーチに言われまして。監督には『サイドにしなかったら使わないよ』くらいのことを言われて、変えたんです」

 制球力向上のためのサイド転向はプロでもよくあることだが、体の回転との関係もあったのだろうか。オーバースローで投げているのに腰が横回転になっていて、じつはサイド向きだったというケースもある。

「いや、たまに遊び感覚で横から投げていたんです。

子どもの頃、近くの大井川で水切りをしていた時から横で投げていましたしね。試合中でも、疲れてくるとだんだんヒジが下がってきて、それでコントロールがよくなることは中学時代からあって。でも、本格派で上から投げたかったので、形を変えられなかった。横にしたらスピードが落ちるんじゃないかと思ってたんです」

 スピードはそのままでコントロールもよくなり、3年目の90年には川崎製鉄千葉(現・JFE東日本)の補強選手として 第61回都市対抗野球大会に出場。補強選手ながら第1戦から起用されて勝利投手になると、第2戦で先発を任された。そこでチームは敗れたが、田村自身は念願のプロ入りを引き寄せる。

同年のドラフト4位で阪神に入団した。

「もともとプロに入りたくて頑張っていたので、ここまでやってきてよかったなと。ただ、キャンプで張りきりすぎまして。早々にランニングとかダッシュで競争っぽいヤツがあって、負けたくないと思って一生懸命走ったら肉離れをして。それでキャンプを棒に振ってしまいました。当然、ピッチングも遅れて、投げられない時は腕ばっかり鍛えていましたね」

プロ初登板でいきなり被弾

 プロ1年目、91年の田村はキャンプ最終日もブルペンに入れず、オープン戦での登板も叶わなかった。ようやく、試合で投げられる状態になったのは4月。

ウエスタン・リーグのダイエー(現・ソフトバンク)戦で初めてプロのマウンドに上がった。だが、その1試合だけで一軍昇格となった。首脳陣の期待度は相当に高かったと思われる。

「二軍で結果を残して......ではなくて、投げられるようになったんだったら上がって来い、ということですから。期待はされていたと思います。でも、初登板でホームラン打たれましたからね。

広島で、小早川さんに」

 4月16日、広島市民球場での広島戦。阪神は先発の猪俣隆が6回まで2失点とゲームを作り、打線は4点をとってリードしていた。迎えた7回、1アウトをとった猪俣がランナーひとりを残して降板、田村に交代する。記念すべき一軍初登板だったが、5番の小早川毅彦に対して2球目のカーブをスタンドまで運ばれて同点2ラン。次打者の山崎隆造にも内野安打された。

「そこでピッチングコーチの大石(清)さんがマウンドに来て、『代わるぞ』って言われました。

いまにして思えば、当然だと思います。でも、その時の僕は『絶対にマウンドを降りたくない』っていう気持ちが強かったんです。大石さんに『ボール、貸せ』って言われたのに渡さなかったんですよ。渡したらもう、使ってもらえないような気がして。

 初めての登板じゃないですか。だから、その場にまだいたいというか。そんなこと、それまでなかったんですけど、知らんぷりをしいてたら大石さんがキレて。『いいから貸せ!』って言われて渡しました。野手の方たちはあ然としてましたね。『え?』みたいな(笑)」

 あるチームのベテラン投手が茶目っ気を出し、マウンドに来た監督にボールを渡さない、というシーンは過去にあった。しかし田村は新人で痛打されたのだ。この試合のテレビ解説の江夏豊(元・阪神ほか)が「ボール渡さないですね。これはちょっと面白いですね」と言ったそうだが、首脳陣に逆らったのも同然。試合後、宿舎に帰ってから大石コーチに呼び止められたという。

「ホテルで『ご飯食べてから部屋に来い』って言われたんです。命令違反ですからね。『怒られるんだろうな』『二軍に落とされるんじゃないか、ヤバいな』と思いながら行きました。そしたら大石さん、ニカーッとして。『おまえ、まだ投げたかったんか、あの状況で』って言われたんです。

 すぐに『投げたかったです』って返事したら、『わかった。じゃあ、明日も投げさせてやる』って言われて。『そうかぁ!』と思って。落とされると思ったらもう1回チャンスがある、ということで何かうれしくなったのを覚えています」

1年目から50試合に登板

 大石コーチが田村の気持ちを買ってくれたのだ。江夏が「面白い」と言ったのも同じ意味合いだろう。そして実際、次の広島戦で出番が回ってきた。先発の藤本修二が2回につかまり、6安打で4点をとられて降板。一死三塁で5番・小早川に打順が回ったところで田村が登板した。

「初登板の時とほぼ同じ場面でした。カーブをホームランにされたんで、その日はストレートを投げたんです。打球が上がったから一瞬、『うわっ』と思って。ライトフライでおさまったんですけど、犠牲フライで1点とられたんですね。それで、次の山崎さんをアウトにしてベンチに帰ったら『ナイスピッチング』って言われて。大石さんも『ナイスピッチング』と。『えっ?』と思って」

 社会人時代、犠牲フライを打たれるだけで首脳陣から怒られていた。ゆえに田村は、褒められても素直に喜べなかった。だが、プロは同じ相手と何度も戦う世界。痛打された打者を次の対戦で仕留めることが大事であり、その意味で、前回登板で打たれた小早川、山崎をアウトにした結果が「ナイス」だったのだ。
 

「そういうこともまだわからなかったわけですけど、大石さんに『明日も行くぞ』って言われて、『よし!』と思いました。ひとり打ちとったということが、次にどんどんどんどんつながって。現に、小早川さんにはそれから1本も打たれなかったですね」

 小早川は左の強打者であり、左対左でデビューした田村だったが、当初から左のワンポイントではなかった。左のサイドスローは左打者にとって厄介だが、田村の場合、どちらかと言えば、右打者に食い込むようなボールに威力があった。

「左バッターよりも右バッターのバットを折ることが多かったですね。社会人だったら詰まりながらもホームランにされていたボールが、詰まったら折れる。当時の社会人は金属バットでしたから、根っこに当たっても折れないで飛んでいっちゃうんです。それがプロでは『ヤバ!』って思ったボールがバットが折れてピッチャーゴロ。この差は大きいと感じましたね」

 社会人出身の投手の利も生かし、果敢に攻める投球が光った田村は1年目から50試合に登板。チームが開幕2試合目から最下位に沈み続けていたなか、大石コーチからひとつの方針が示されていた。

「夏でした。『来年に向けて、抑えの練習するぞ!』って言われたんです。抑えといっても、当時は1イニング限定じゃないですから。同点でも、負けていても、ランナーがいる場面でもいってましたから。ピンチの時は、いつでも行くぞっていう意気込みでしたよ」

後編につづく>>

(=敬称略)