帝京高校・前田三夫名誉監督インタビュー前編


帝京名誉監督・前田三夫が指導者人生を振り返る。名将の礎となっ...の画像はこちら >>

1980年、帝京高のセンバツ準優勝後に十条駅周辺で開かれたセレモニー。右から3番目が前田三夫監督(当時)

 2021年夏、東東京大会準決勝で二松学舎大附に敗れたあと、50年という長い指導者生活にピリオドを打った帝京高校野球部の前田三夫・名誉監督(以下、前田監督)。


 この夏、出版した初の自伝『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新社)のなかで紹介されている自身の学生時代のエピソードはあまり知られておらず、とても興味深い内容だ。

 木更津中央高(千葉・現木更津総合高)時代、ノックのボールが当たって前歯2本を欠損するなど、あまりの猛練習に野球部をやめかけたこと。また、進んだ帝京大時代は、周りの精鋭に圧倒され万年補欠。それでもやめることを思いとどまり、練習に励み、自分を活かそうとノッカーとしての腕を磨き続けた。そんな時間が、やがて指導者として花開かせるきっかけとなっていく。

 このほど全国制覇を果たした仙台育英(宮城)の須江航監督を自身の姿を重ねながら、前田監督は「補欠であったことが財産」と言いきる。

壁にぶつかった時、本が力になった

 現在は名誉監督としてチームに在籍している前田監督。直接指導は教え子の金田優哉監督らに任せ、口を出すようなことは一切していない。グラウンドに顔を出しても、いるのはいつも30分程度。「お前たちの考えるように、やりたいようにやってみなさい」と部外者顔を貫き、若手スタッフも拍子抜けするほどである。

 前田監督は高校球界で常にマスコミから注目される存在だったが、引退後に指導書といった著書を出すことには否定的だった。「指導の方法はいろいろあるし、自分は本を出すようなことはしていない」というのが理由で、「野球とはきっぱり縁を切ってもいい」とまで言っていた。でも引退の時期を具体的に考えるようになった時、その気持ちに変化が生まれたという。



「自分が本に助けられてきたとあらためて気づいたからです。帝京の監督になった時、強くなりたいと必死になる私に、ならば武道の本を読みなさいと宮本武蔵の本を勧めてくれたのが、当時、東海大相模(神奈川)の監督だった原貢さん。この本との出会いは思いがけず大きくて、武蔵の生きざまから自分のあるべき姿を考えたものです」

 原点に立ち返り、苦しい時ほどページを開く。それが吉川英治の『宮本武蔵』だった。

帝京名誉監督・前田三夫が指導者人生を振り返る。名将の礎となったのは「選手時代の万年補欠」

2021年、50年間の指導者生活を終えた

 さらに遡れば、木更津中央高の1年生の時、自分の小遣いで買った金田正一の自伝が印象深いという。当時、国鉄スワローズの怪腕投手として活躍していた金田。

本のタイトルは『やったるで!』。学生時代やプロ入りしてからの話は、とにかく豪快そのものだった。

「教科書を開いているふりをして、授業中にこっそり読んでいました。非常に面白く、インパクトがあった。こんなふうに生きられたらいいなと夢と希望を与えてくれた本。私は元来、自分ことは自分で考え行動するタイプですが、壁にぶつかった時に大きな力になってくれたのが本です。
折々に引っ張り出して、自分を鍛え直すためのヒントをもらいました。

 今回著書を出すことを決めたのは、私のしてきたことがどの程度のものなのかはわかりませんが、50年も積み重ねればそれなりにいろいろある。それを包み隠さず出すことで、読み手が何かを感じ取ってくれるかもしれない。私自身がそうであったように、それを人生のどこかで活かしてくれたらこれほどうれしいことはないなと、思ったからです」

 生い立ちから綴り、指導者になってからの1年1年をあらためて思い起こしながら、猪突猛進、時に無謀とも思える行動を取った自分に呆れたことも。一方で、「社会のあり方が変わった今だったらできなかったことも多い。自由に、力いっぱい高校野球指導に関われたことはとても幸せだったと思う」と、振り返る。


帝京名誉監督・前田三夫が指導者人生を振り返る。名将の礎となったのは「選手時代の万年補欠」
 物質的にも恵まれないなかでチームをゼロからつくり上げ、名門校に育てた前田監督。いい選手が来てくれればそれに越したことはないが、トップクラスでなくても時間と労力を惜しまず、たたき上げで一流に育てる指導が好みだった。

 今やスパルタは完全否定されて通用しないが、エネルギッシュに挑み続けた日々はいつの時も躍動感に溢れている。そして、誰よりも厳しい指導者と言われたが、笑えるエピソードが多いのは、この人ならではだと納得である。

仙台育英・須江航監督との共通点

 帝京のユニフォームを脱いだあとは、試合解説やマスコミ取材の依頼があとを絶たず、現役指導者だった時以上に忙しいそうだ。この夏の第104回全国高校野球大会でも都大会の決勝戦や、甲子園大会では民放で解説を担当した。

 その甲子園で頂点に立ったのは、悲願の「白河の関越え」を果たした仙台育英である。

同校を率いる須江監督は、1983年生まれの39歳。前田監督とは年齢こそ大きく違うが、実はふたりにはある共通点がある。それは、学生時代にレギュラー選手ではなかったことだ。

 前田監督の場合、高校ではレギュラーだったが進んだ帝京大ではずっと補欠。4年時は一塁コーチャーや新人監督としてユニフォームを着たものの、公式戦出場の記録はなし。練習試合も途中交代で出たわずかな打席しかない。

 対する須江監督は埼玉県から仙台育英に進んだが、大所帯のチームにあって3年間補欠、最終的にマネージャーという立ち位置だった。進んだ八戸大でも学生コーチとして活動し、フィールドこそ違えど、ふたりとも選手としてはまったく日の目を浴びない時期を経験していた。

 このことについて、前田監督は「補欠だったことは指導者として決してマイナスではない、むしろプラス面が多かった」ときっぱり言う。下級生の頃は延々とバッティングピッチャーをやらされ、好きだったはずの野球がどんどん苦痛でしかなくなるというつらさを味わった。一度はやめることを決意し実家に戻るが、思いとどまらせたのは、畑仕事で泥まみれになって働く両親の姿だった。

「家は半農半漁で、父と母が高い学費や寮費をどうにかこうにか工面してくれていた。にも関わらず、自分は野球ごときで音を上げている。ふたりを見た時、やめるなんてとても口にできなかった。そして、心に決めたのです。何があってもやり通す。バッピでもノッカーでもいい、とことんやって堂々4年間を終えてやろうと」

補欠だったからこそ見えたこと

 帝京の監督時代はノックの名手としても知られていた。さまざまな打球を打ち分け、狙った場所にピタリとボールを飛ばせる高い技術。その原点こそ、大学時代の辛抱を重ねた時間にある。バッティングピッチャーのみならずノッカーとしても重宝されるようになり、やがてチーム内で一目置かれる存在に。それが大学関係者の目にも留まり、帝京高の監督に指名されるきっかけとなった。

 レギュラーとは無縁だった大学時代、前田監督は何を見て、何を感じていたのか。

「まず、補欠ということは自分に足りないものがたくさんあるわけです。だから、レギュラー選手のどこがすごいのか、どこを学ぶべきなのかをいつも傍目で見ていました。うまい選手は下手な選手をどうしても見下してしまいがちだけど、そうではなく、下から憧れの目でじっくり観察していましたね。

 しかも試合に行けば、他大学にさらにすごい選手がたくさんいる。一流選手を間近で見られたのはとても大きかった。このタイプの選手はここを伸ばしたらさらによくなりそうだ、この体格なら身体をこう使うといいんだな、つまずいたときはこう修正するんだな......とか、彼らを見ながらそんなことをよく考えました。それが指導者としての引き出しを多く持つことにつながりました。

 逆にレギュラーでも、自己中心的だったり、ここはダメだなという部分もたくさんわかってきます。チームを代表して戦うのだから技術だけでなく人間性も大事。この時、私のなかでできあがったのが、こうでなければいけないんだという理想のレギュラー像。帝京は野球の強豪校にはなりましたが、人間的にダメだと思ったらレギュラー剥奪。だから、実力があっても外したことは多々ありました」

レギュラーと補欠が一体となるチーム

 レギュラー選手には「補欠の気持ちを考えろ」、また不満顔の補欠には「レギュラーはレギュラーでプレッシャーを感じながら戦っている。その気持ちも思いやれ」と、事あるごとに声をかけてきた。

 理想のチームが毎年つくれたわけではないが、今も一番だと思うのは、レギュラーと補欠が一体となるチーム。前田監督は過去に春夏通算26回の甲子園出場経験を持つが、いずれの時もその歯車がピタリと合ったという。

「私にノックという特技があったように、どの選手も活かすべきいいものを必ず持っています。レギュラーにはなれなくても、それに気づかせてあげられるような指導がとても大切じゃないかと。そうすれば、選手全員が3年最後の夏まで同じ気持ちで戦えると思います」

帝京名誉監督・前田三夫が指導者人生を振り返る。名将の礎となったのは「選手時代の万年補欠」

1979年秋の東京都大会、神宮球場にて

 長い間指導者を続けられたのは、補欠という下積みを経験したから。つまずいた選手には「お前の気持ちはよくわかる」と自分の過去を隠すことなく話し、気持ちをほぐしてきた。

 そして、公式戦前のベンチ入りメンバーの発表とユニフォームの手渡しを、前田監督は長らく部員全員の前で行なうことはしなかった。儀式のように行なうチームも多いが、決して大げさにせず該当選手だけを呼び、「補欠の思いも背負って頑張れ」と言ってサラリと渡してきた。それはベンチ入りが叶わなかった選手にその光景を見せるのは酷だと、自身の体験から貫いてきたことだった。

「私は野球の選手として一流ではなかった。だからこそ、イヤなことにも挑戦して自分を磨いてきたつもりです。須江監督もおそらく同じ気持ちではないかと思うし、いろいろな選手の気持ちがわかるから、一人ひとりと並走するつもりでやってきたんじゃないですかね。若くしての全国優勝だからこれからがまた大変だと思いますが、ブレずに頑張ってもらいたいと思います」

 余談だが、前田監督は大学時代、神宮球場のフィールドの中に一度も入ったことがなかった。それが海外遠征に伴う東京都の代表監督を務めた時、たまたまサードのポジションに立つ機会があった。いつもはベンチの中にいるので、見慣れていたのは外野へ向かって広がる世界。ところがこの時目に飛び込んできたのは、それとは真逆の観客席が迫ってくるような光景だった。

 選手たちはいつも神宮のフィールドに立ち、このなかでプレーしていたのか......。まるで我が庭のように戦ってきた球場だったが、初めて気づいた思いがけない発見。それは、50年の節目に引退を決意するわずか3年ほど前、指導者として晩年の出来事だった。

中編<山﨑康晃の逃げ出し事件、中村晃のジャンボ弁当箱、松本剛が大谷翔平から放った決勝打...帝京・前田三夫が回顧する教え子との思い出>

【プロフィール】
前田三夫 まえだ・みつお 
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校名誉監督。