2月18日、ウイニングチケットが死んだというニュースを見て、すぐに頭に浮かんだのは、やはりあの日本ダービーだ。

 1993年5月30日、東京競馬場

 レース終盤となる最後の直線。坂を上るあたりで、いち早く馬群から抜け出したのは、ウイニングチケットだった。

「ダメだ! まだ早い!」

 その時、思わずそう口にしたのは、おそらく筆者だけではないだろう。

 遡(さかのぼ)ること、2走前の弥生賞。ウイニングチケットは、道中最後方で待機。3コーナー過ぎから進出し、4角を大外からブン回しながらも末脚を生かす競馬で2着以下をなで斬りにした。

 競馬ファンの多くは、その破壊力に目を見張った。そして、この豪快な競馬こそ、ウイニングチケットのよさが最大限発揮できるレーススタイルだと思った。

 しかし、続くクラシック初戦の皐月賞では、中団で運んで4角2番手という早めの競馬を見せる。その結果、自慢の末脚は鳴りを潜めて4着に敗れた。

 代わって勝利を収めたのは、ウイニングチケットが弥生賞で2馬身差をつけて下したナリタタイシン。おかげで、敗因は「騎手の早仕掛け」とも言われた。

 にもかかわらず、ウイニングチケットはダービーでも再び、まさに皐月賞の二の舞となるような早仕掛けの競馬を見せた。それも、皐月賞の舞台となる中山競馬場より直線が長い東京競馬場で。

 この時、馬券を買っていたファンのみならず、皐月賞と同じくゴール前で失速するウイニングチケットの姿を思い浮かべたファンは少なくなかったに違いない。

 ところが、待っていたのは皐月賞とは異なる光景だった。

 早め先頭に踊り出たウイニングチケットを目がけて、強力なライバルたちが襲い掛かる。内から皐月賞2着のビワハヤヒデ、外から皐月賞馬のナリタタイシンが強襲。

壮絶な叩き合いとなり、残り100mをきった辺りでは一瞬、内のビワハヤヒデが前に出たかに見えたが、ウイニングチケットがそこからもう一度伸びる。

 最後は鞍上の叱咤に応えるように、ウイニングチケットが半馬身だけ前に出てゴール板を通過。皐月賞での雪辱を晴らし、世代の頂点に立ったのだ。

ウイニングチケットは「7%の余力」を埋めて悲願達成。日本ダー...の画像はこちら >>

1993年の日本ダービーを制したウイニングチケット

 あとで知ったのは、そこに「ダービーを勝つために」という、さまざまな思いが込められていたことだ。

 ウイニングチケットの鞍上は、柴田政人騎手。この時、44歳。

 数多くの重賞を制し、全国リーディングジョッキーにも輝いている。好敵手・岡部幸雄騎手とともに関東を代表するトップジョッキーだった。

 ただ、柴田騎手はダービーには縁がなかった。それまでに18回挑戦して、3着が2度あるだけ。「何としてもダービーを勝ちたい」――それは、柴田騎手の悲願だった。

 そんな柴田騎手に救いの手を差し伸べたのが、名伯楽として知られていた伊藤雄二調教師だった。

「おまえにダービーを獲らせる」

 ウイニングチケットの主戦を任せるに際して、伊藤師は柴田騎手にそう言った。

 そうして、伊藤師が描いた青写真は、ウイニングチケットの体調をダービーでピークに持ってくること。したがって、そこまでの過程では、ある程度の敗戦も覚悟していた。

 一方、柴田騎手もダービーを勝つための最適な騎乗、ウイニングチケットのよさを存分に発揮できる競馬を探っていた。

 実は、それが皐月賞だった。敗れはしたが、皐月賞のような形こそ、ウイニングチケットにとって理想の競馬だという確信が、柴田騎手にはあった。

 早めに抜けだして、ゴールまでしのぎきる。ゴール前のキレ味ではなく、むしろゴールまでの粘り強さを生かす。それが、ウイニングチケットをダービーで勝たせる最良の選択であると信じていた。

 それゆえ、伊藤師にも、柴田騎手にも、皐月賞の敗戦によるショックはなかった。あくまでも体調が整わなかったことによる敗戦。伊藤師曰く、皐月賞時のウイニングチケットの出来は「93%くらい」だったという。

 つまり、ダービーまでにはまだ、状態を7%アップさせるだけの余地があったのだ。

 ダービーを勝ちたいジョッキーと、勝たせたい調教師。そして、ダービーを勝つにふさわしい能力を備えた馬。人間ふたりの執念に、"残り7%"調子を上げたウイニングチケットが呼応。それが、あのダービーの半馬身勝ちにつながった。

 結局、ウイニングチケットのGI勝利は、このダービーのみ。同馬自身はどう思っていたかは知る由もないが、のちに多くのファンがそう呼んで、記憶しているように、やはりウイニングチケットは「柴田政人にダービーを勝たせた馬」だったのだろう。

 今年33歳。サラブレッドの寿命は20代半ばくらいと言われることを思えば、ずいぶん長生きしたと思う。安らかに、と祈る。合掌――。