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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第28回 広野功・前編 (シリーズ記事一覧>>)

 いまや伝説として語られる「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る人気シリーズ。第28回は中日、西鉄、巨人の3球団で活躍した広野功(ひろの いさお)さんを取り上げたい。

 名門・徳島商で甲子園に連続出場し、進学した慶應義塾大では東京六大学のスター選手に。華やかなアマ時代の球歴に比べると、ドラフト一期生として進んだプロでは一見、凡庸な数字しか残していないように思える。しかし、わずか9年間の現役生活は、日本プロ野球史上唯一の記録に彩られた濃密なものだった。

タメぐち、生意気な巨人の堀内に怒り、逆転サヨナラ満塁弾を浴びせた男
堀内(右上の21番)から逆転満塁サヨナラ弾を放ちホームインする広野(写真=共同通信)

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 広野功さんに会いに行ったのは2017年8月。同年にヤクルトで達成された快挙がきっかけだった。まずは4月2日のDeNA戦で鵜久森(うぐもり)淳志がサヨナラ満塁本塁打を放ったあと、5月14日の中日戦でも荒木貴裕がサヨナラ満塁本塁打。

同一球団による年間2本のサヨナラ満塁弾はセ・リーグ史上初で、僕はこの2本に触発され、広野さんが持つ記録を思い起こした。

 というのも、広野さんは中日、西鉄(現・西武)、巨人でプレーしたなか、中日時代に1本、巨人時代に1本、計2本の逆転サヨナラ満塁本塁打を打っている。同点のケースでサヨナラ満塁弾を2本打った選手はほかにもいるのだが、逆転の2本は史上唯一、広野さんだけだ。

 その点、鵜久森も荒木も同点のケースゆえ、ヒットや犠飛、押し出しでもサヨナラになると考えれば、逆転とは値打ちが違う。打席での心理状態も違うだろう。そういう意味では不釣り合いか......と感じながらも、取材を申し込んだ。

 東京・大田区、東急池上線沿線の老舗洋菓子店。約束の時間よりも10分ほど早かったが、喫茶室の入り口に大柄な男性が立っていて、その人が広野さんに違いなかった。猛暑日の午後でも、白地に縦縞の半袖シャツと生成りのチノパンが涼しげだった。声をかけると素早く応対して、背筋を伸ばした。眼鏡の奥の眼は黒目がちでやさしく、表情もいたって穏やかだった。

 奥の席を陣取って名刺交換を終えると、広野さんはバッグから書類を取り出して渡してくれた。

〈プロフィール 広野功〉と記されたA4判の文書は、巨人時代の写真を配したベースボールカードがクリップで留めてあり、小学校名から始まる経歴が年表のように記載され、最近のアマチュア野球指導実績まで全4枚にわたって続いている。

 名刺を交換した野球人はこれまでにも何人かいたが、プロフィールを用意してくれた方は広野さんが初。ありがたい、と思うと同時に、この濃密で詳細な野球人生の記述に対し、取材を思い立ったきっかけはそぐわないかもしれない......。少し不安になって取材主旨を説明すると、広野さんは言った。

「ありがとうございます。ことあるごとに僕の名前を思い出してくれるんで。

もう半世紀も前のことなんですけどね」

 感謝の言葉に恐縮しながら、半世紀以上前にさかのぼる。徳島に生まれ、徳島商高では2年時に春夏連続甲子園出場を果たした広野さんは、1962年、東京六大学リーグの慶應義塾大に進学。在学4年間で3度の優勝に貢献し、右投左打の強打者として通算8本塁打をマーク。これは当時、立教大の長嶋茂雄(元・巨人)に並ぶ六大学タイ記録だった。

「8本打ったときにマスコミが騒いでくれたんですけど、そのとき、65年の秋の慶應は早慶戦で負けて早稲田の優勝が決まった。はっきり言って落ち込んでるわけです。

長嶋さんのことを聞かれても、僕はあんまり話したくない。おそらく、マスコミの印象を害するような対応をしたと思うんです。でも、それが真実の心境でした」

 すると最後の試合はキャプテンの江藤省三(元・巨人ほか)はじめ、4年生の仲間たちが新記録の9本を打てるように後押し。「チンケなヒットなんか打つな。三振かホームランでいいんじゃないか?」という話が出てきた。

「それで全部、狙いにいきましたけど、3打席連続で三振。

で、4打席目、真ん中に甘い球がきてとらえたら、カーンと右中間に上がった。一瞬、入ると思ったら、フェンスの頭に当たって三塁打になった。これが大学の最終打席で、その入らなかった悔しさが残りました」

 とはいえ、それだけの長打力をプロが放っておくはずもない。ときに1965年11月17日、第1回のドラフト会議が行なわれ、広野さんは中日から3位で指名された。

「ドラフト一期生なんですけど、僕はアメリカに野球留学しようとしていたから、日本のプロにあまり興味がなかったんですね」

 ドラフト後に行なわれたアジア野球選手権大会で全日本の4番を務めた広野さんは、大会最多の3本塁打を放って優勝に貢献。国際試合経験で視野も国外へ広がった一方、社会人という確かな進路も選ぶことができた。それにしても、「日本のプロに興味がない」という言葉は衝撃的だ。

 その頃、一部スポーツ紙が「広野はドラフトを嫌ってアメリカに行く」と受け取り、〈広野、ドラフト制に反旗を翻す〉と見出しを立てて"飛ばし"記事を書いたという。当時、大学野球の選手がアメリカ志向を持つのは自然な流れだったのだろうか。

「その前の年、アメリカの大学選抜が来日して、日本一になった駒澤大を中心とする学生選抜との試合を神宮でやったんです。六大学からは僕も含めて5人が参加しました。

 そこでアメリカの連中のパワーを見て、すごくインパクトがあった。こいつらと一回やってみたいなと。そこにマッシー村上が大リーグで投げた、活躍したというニュースがどんどん入ってきて、なおさら行きたいと思ったわけです」

 いかにも南海(現・ソフトバンク)の若手左腕だった村上雅則が野球留学で渡米し、マイナーからメジャー昇格を果たして[日本人初の大リーガー]が誕生した頃。アメリカ志向にさらに拍車がかかった広野さんは、当時の慶大監督・前田祐吉に野球留学について相談した。

「そしたら『それは面白いんじゃないか。やろうよ』という話になって。前田さんもアメリカ志向だったんですね。じゃあ、どうするか、何を伝手(つて)にすればいいか、となったとき、鈴木惣太郎(そうたろう)さんにつながったんです」

 予想外の話の展開に驚く。鈴木惣太郎といえば、日本プロ野球誕生に連なる1934年の日米野球において、ベーブ・ルース招聘に努めた功績で知られる。戦前から日米間の野球交流に尽力し、長年、球界の要職を歴任した人物が関わるとなれば、一大学生の夢と憧れも一気に現実味を帯びたことだろう。

「実際、『一回、話をしよう』と言われて行ってみたら、『ドジャースのオマリー会長のとこに話をしてやるよ』と言ってくれて。すごく前向きでどんどん話が進んだんですね」

 折しも、中日の臨時コーチとして来日したドジャースのコーチが、アジア大会前に広野さんの練習を視察。その際の評価と、アジア大会の結果を踏まえての答えが、ウォルター・オマリーからの返信に書かれていた。鈴木から帝国ホテルに呼ばれた広野さんは、監督の前田とともに食事をしながら答えを聞いた。

「要点はこうでした。『ドジャースで受け入れてやる。ただし、一時的とか言うんじゃなしに、君がアメリカで本当に骨を埋める、ということならば』と。それで前田さんも鈴木さんもフロンティア・スピリットがありましたから、『マッシーはプロから行ったけど、アマチュアからは行ってないんだから行け』と言われたんです」

 ひょっとしたら、[日本人野手初の大リーガー]は広野さんだったかもしれない。が、「骨を埋める」となると本人の一存では決められず、父親に相談すると激怒された。ドラフトで中日に指名されて大喜びで、当然、入団するものと決め込んでいたのだった。そこは父と息子とでまるで認識が違う。

 まして、広野家には兄の翼(まもる)さんが慶大受験に失敗した過去があり、その頃に父親が経営する会社が傾き、経済的な理由から兄は阪急(現・オリックス)に入団。そこで得られたお金で父親の会社が再建され、徹底的に受験勉強した広野さんの慶大進学も実現という経緯があった。その上でプロから指名されたのに、なぜアメリカなんだ? と父親は怒ったのだ。

「それで中日に入団するんですけど、僕の志みたいなものが、常に、前に前に、というものだったことは確かなんですよね」

 入団すると、強打者の江藤慎一がチームの"親玉"として君臨していた。新人なら普通は臆する存在も、江藤の弟が慶大キャプテンだった省三ゆえ、広野さんは可愛がられた。66年春のキャンプでは監督の西沢道夫に認められ、3番・一塁候補としてオープン戦に出場する。

 活躍を伝える野球雑誌は〈中日の大物候補〉と題した記事を作り、広野さんを〈慶大出らしい坊っちゃん的なところはあるが、人なつこい笑顔、明るい性格はナインからも親しまれている〉と紹介。順調に始動したのだが、3月半ばの試合で本塁クロスプレーの際に右肩を亜脱臼。病院回りを続けた末、地元の徳島に東洋医学の有名な接骨医がいると知り、すがる思いで訪ねた。

「診てもらったら、『あなた、無理ですよ』と。ははっ。全国から患者が来る名医にそう診断されて、愕然として家に帰って、『オレもう野球できない。やめるわ』って言いました。そしたら母親が血相を変えて言ったんです。『何言ってんだ。今すぐ名古屋へ帰れ! 腕がちぎれてから帰ってこい!』と」

 初めて母親に怒られた広野さんは「そうや。何をオレ、こんな弱気になってんだ」と目を覚ました。まずは肩周りの筋力を強化し、上がらなくなっていた右腕を動くようにした。4月末には投球可能になり、二軍戦に出場。打撃の結果が出るようになって、ついに一軍に昇格した5月10日、サンケイ(現・ヤクルト)戦でプロ初打席を迎えると初安打、初打点をマークした。

「5月の終わりからレギュラーになって、3番を打つようになるんですけど、常に新聞の一面は同じルーキー、巨人の堀内恒夫です。投げたら勝つんですからね。それで中日もペナントレースで巨人を追っかけてるから、堀内が気になって仕方がない。すごいヤツやなと。しかも生意気そうなヤツで、談話もふざけたことしゃべってるし、なんやねん、こいつは......と思ってました」

 そんな堀内と広野さんの初対戦は7月2日、後楽園球場。結果は4打数0安打に終わっている。チームも4対5で敗れ、一方で堀内は完投で開幕8連勝。タテに大きく割れるカーブと、高めの真っすぐに歯が立たなかった。

「それでもうその日から、堀内から絶対打ちたい、どうすれば打てるか、と考え出すわけです。で、速い球と大きく割れるカーブ、両方に対応するには今のバットでは重い。少し軽くて、すごく弾きのいい1本を選び出しました。練習ではそれで5球ぐらい打ったらあとは使わずに、毎日、素振りしてたんです」

 専用バットまで用意するほど対抗心があったとは......。しかも、その対抗心をさらに煽られる機会が、マスコミによってもたらされる。7月のオールスター前、「二人のセ・リーグ新人王候補」ということで、スポーツ紙が広野--堀内の対談を企画したのだ。

「ここで僕、頭きました。堀内の態度が生意気で横柄で。僕らの時代、大学4年生は1年生から見たら天皇陛下みたいなものなんです。言葉遣い、態度が悪かったら常に説教される。挨拶は会釈なんかとんでもない、常に直立不動、最敬礼です。

 その点、高校出の堀内は大学生なら1年生なのに、態度は悪いし、友達言葉で話す。でも、向こうは高校でそういう経験してないから何とも思ってない。だったら、こいつから絶対に打とうと、ますます集中するようになったんです」

タメぐち、生意気な巨人の堀内に怒り、逆転サヨナラ満塁弾を浴びせた男
堀内恒夫とのエピソードを語る取材当時の広野さん

 迎えた8月2日。2位の中日が首位の巨人に4.5ゲーム差と迫り、「夏の天王山」といわれた試合。広野さんは巨人先発の城之内邦雄から2本のタイムリーを放つも、3対5と中日が2点ビハインドで9回裏を迎えた。

 二死一塁から連打で満塁になり、広野さんの打順になったところで城之内から堀内に交替する。その堀内は2日前の広島戦で先発してプロ初の黒星を喫し、開幕からの連勝が13で止まっていた。それだけに中日戦での登板はないと思っていたところが出てきた。広野さんはロッカーから堀内専用バットを取り出し、打席に向かった。

「ブルペンで投げてるときから、カーブが全部、高めに抜けてました。マウンドでの投球練習でも変化球が抜ける。それで勝負。初球、真っすぐが甘く入ってきたけどファウル。次、カーブがまた抜けたんです。それで、えっ? と思ってタイムかけました」

 打席を外してスパイクの紐を結び直し、気持ちを整理した。その間、堀内は珍しくボールを2回も交換した。何なんだろう......と思いながらも絶対に真っすぐがくると確信し、そのタイミングで打ちにいった。

「インサイド寄りの甘い球、軽く、自然とバットが出ました。芯でとらえてるから手の感触なしです。抜け出るようにスパーンと、センターの方へ上がって。逆転サヨナラだと。あとはもう宙に浮いてるようにふわふわして、みんなに『ホームベース踏め!』って言われたんですけど、自分では二塁と三塁、踏んだっけな? と心配になりました」

 試合後、広野さんは母親に電話を入れて「やったよ」と報告した。「腕がちぎれてから......」と怒られ、発奮させられ、野球をやめずにプロ1年目から結果を出せている。恩返しできたかなという思いがあった。

「この1本目の逆転サヨナラ満塁ホームランは、自分の野球人生のなかで心の支えみたいになりました。でも、そのあとに壁があったんです。1年目に13本のホームランを打って、2年目も19本打って、これから、というときにトレードですから」

(後編につづく)