WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)プールBの1次ラウンドの日韓戦。日本の先発を託されたダルビッシュ有は初回、スライダーを左右高低に投げ分け、韓国のトミー・エドマン、キム・ハソンを内野ゴロ、3番のイ・ジョンフもレフトフライに仕留める。

 一方、韓国先発のキム・グァンヒョンもタテに落ちるスライダーを低めに集め、ラーズ・ヌートバーをセンターフライ、続く近藤健介、大谷翔平を連続三振に打ちとりガッツポーズ。

 両投手とも持ち味を発揮した、ベテランらしい立ち上がりを見せた。球数次第ではあるが、4イニングくらいまでは投手戦が続くか......そんな予感を抱かせるスタートだった。

ダルビッシュ有とキム・グァンヒョン…14年前の歓喜と屈辱を経...の画像はこちら >>

3月10日のWBC日韓戦に先発し3回3失点でマウンドを降りたダルビッシュ有

【14年前の歓喜と屈辱】

 2009年、第2回WBC。ふたりは14年前の同じ大会で、同じマウンドに立っていた。ダルビッシュが22歳、キム・グァンヒョンが20歳の時だ。ふたりにとって14年前は、対照的な記憶として残っているはずだ。

 ダルビッシュは先発の一角を担い、準決勝のアメリカ戦からは抑えで登板。決勝の韓国戦では最後のバッターを大きく流れ落ちるスライダーで三振に打ちとり、胴上げ投手にもなった。

 かたやキム・グァンヒョンは、1次ラウンド2戦目の日本戦で先発マウンドに上がるが、まさかの2回途中8失点で降板。チームも2対14と7回コールド負けを喫し、韓国にとっては球史に残る惨敗となった。韓国は決勝まで勝ち進んだが、その試合以降、キム・グァンヒョンは先発することなく、中継ぎにまわった。

 歓喜と屈辱──あれから14年が経ち、ダルビッシュは36歳、キム・グァンヒョンは34歳になった。

 その間、ダルビッシュは日本ハム時代に2011年に18勝(6敗)を置き土産にメジャーへと渡り、テキサス・レンジャーズを皮切りに、ロサンゼルス・ドジャース、シカゴ・カブス、サンディエゴ・パドレスでプレー。メジャーでも着実に進化を遂げていった。

 2015年には右ヒジを痛め、トミー・ジョン手術を余儀なくされるが、その後復活し、昨シーズンはナ・リーグ3位タイとなる16勝をマーク。オフにはパドレスと新たに6年総額1億800万ドル(約141億円)の契約をかわすなど、衰えを見せない。

 キム・グァンヒョンは韓国リーグの2010年に17勝で最多勝に輝くが、左肩を痛めてしまう。その後、2年間は騙し騙しの登板が続いていたが、一向に回復せず、治療のため来日。

横浜の専門医ほか各地を回るなど、孤独な時間を過ごしたこともあった。

 その甲斐あって、2013年には10勝を挙げ復活。それからも2ケタ勝利を続け、2019年には17勝をマークして、翌年、セントルイス・カージナルスに入団してメジャー移籍の夢を叶えた。

 だが2020年はおもに中継ぎとして3勝、21年には7勝を挙げるもオフにFAとなり帰国を決意。古巣のSKワイバーンズ(現・SSGランダース)に復帰した。

 このふたりにはほかにも重なる部分がある。

力でねじ伏せるピッチングから、変化球を丁寧に投げ分けるスタイルへの転身だ。

 ダルビッシュについて印象的な光景がある。今年2月、侍ジャパンの強化合宿でのブルペン。自身の機器を持ち込み、ピッチング時にボールの回転数や変化球の曲がり具合を1球1球確認していたことだ。感覚と数値をいかに一致させることができるか。イメージどおりの回転、曲がり幅を求めて投げていた。

 その根を詰めたピッチングは、彼がいかにしてメジャーの世界で生き抜いてきたか、わずかではあるがその一端を垣間見た気がした。

【不完全燃焼の日韓戦】

 WBC韓国戦の2回、ダルビッシュは4番のパク・ビョンホを134キロのスライダーで空振り三振、つづくキム・ヒョンスは一塁ゴロ、パク・コンウもライトフライとテンポよく終えた。球数も少なく、スライダーのキレもいい。不安はないように思えたが......。

 ところが3回、先頭のカン・ベクホに二塁打を許すと、8番のヤン・ウィジには135キロのスライダーをレフトスタンドに運ばれた。その後、味方の失策からさらに1点を許し、この回3失点。

ここまで球数は48球。1次ラウンドの球数制限である65球までまだ余裕はあったが、栗山英樹監督は4回のマウンドにダルビッシュを送ることはなかった。

「今年初めての試合だったんですけど、球速もそこそこ出ていましたし、最初の試合にしてはよかった。ただ、3回に点をとられたところは、スライダーが甘く入ったところを打たれた」

 キム・グァンヒョンも、初回に続き2回も岡本和真、牧秀悟を連続三振に打ちとるなど、完璧なピッチングを披露。シーズンでも見ないほどの好調ぶりは、一方で飛ばしすぎのようにも感じられた。

 案の定、3回に源田壮亮中村悠平を連続四球で出塁させると、1番のヌートバーにセンター前タイムリー。そして2番の近藤に二塁打を打たれたところで交代となった。球数は59球だった。

 その後、韓国は矢継ぎ早に投手をつぎ込むも、日本打線を止めることはできず、14年前の試合を彷彿とせる4対13の大敗となった。

 ダルビッシュにとってはぶっつけ本番での登板。打者との感覚はまだつかめていない印象を受けた。キム・グァンヒョンにいたっては、大会前、韓国のイ・ガンチョル監督から「大事な場面での起用」と、先発ではなくリリーフでの登板を示唆されていた。ところが初戦のオーストラリア戦に敗れ、急遽、日本戦での先発指令が下った。

 ともにベストとは言えない状態での重要な先発登板は、もどかしさの残る結果となった。

「日本で投げることが十何年ぶりなので、特別に感じていました。生まれ育った場所で、こういう機会は最後かもしれないと思って投げていました」

 試合後、ダルビッシュはこう述べた。そしてキム・グァンヒョンは韓国取材陣の前で立ち止まることなく、バスへと向かった。

 ふたりの実力からすれば、不完全燃焼に終わった日韓戦。それでもまだ登板の機会はあるはずだ。次にどんなピッチングを見せてくれるのか、ふたりから目が離せない。