連載「斎藤佑樹野球の旅~ハンカチ王子の告白」第27回

 大学2年の秋、斎藤佑樹はリーグ戦ですばらしい結果を出した。9試合に投げて7勝1敗、防御率0.83──1回戦を斎藤で勝って、2回戦を落とし、3回戦を斎藤で勝つという東京六大学の"あるべきエース像"を、この時期の斎藤は体現していた。

「ハンカチ王子を卒業しろ」 恩師からの檄に斎藤佑樹はプロに向...の画像はこちら >>

大学2年の秋、7勝1敗、防御率0.83というすばらしい成績を残した斎藤佑樹

【先が読めるようになった】

 2年の秋には変化球で簡単にストライクがとれるようになりました。それまではストレートを振らせにいってファウルや空振りでカウントをとってから最後、変化球を決め球に使っていたんです。でも変化球をカウントボールに使うことを覚えたら、勝負の幅が一気に広がりました。

 変化球を投げてポンッと簡単にストライクをとれると、追い込んでから真っすぐでも変化球でも勝負できるんです。2年の秋は、ストライクをとるのってこんなに簡単だったんだ、という感じがありました。それがいい結果につながっていたんだと思います。

 初球、たとえばスライダーで簡単にストライクがとれるようになったのは、バッターが見えていたからだと思います。

とくに調子がいい時には、「ああ、このバッターはスライダーを振らないな」ということが見えていました。高校時代からそういう感覚はあったんですが、大学2年の頃にはバッターだけじゃなく、相手チーム全体を見渡せるようになった気がします。

 ランナーが一塁にいる時、目の前のバッターにホームランを打たれての2点を考えるのではなく、もしこのバッターにヒットを打たれて一、二塁、あるいは一、三塁になったら、その次のバッターにどういうピッチングをすべきか、というところまで考えられるようになっていました。

 要は、先が読めるようになったということなのかな。もともと僕はありとあらゆる状況を想像して、いろいろなことを柔軟に考えることを大事にしていました。緊張や不安をどう受け止めて、どう考えるかというところも冷静に見ていたと思います。

大事な場面で前の打席に打たれなかったバッターを迎えたら、ランナーがいない場面で打てないのにここで打てるはずがない、と考えられるんです。

 思えば1年の時は必死で先輩方に喰らいついていって、いきなり春のリーグ戦で優勝しました。いつしか自分がチームを引っ張らなきゃいけないという感覚になって、秋も優勝しました。でも2年の春に明治に負けて優勝を逃した時、そんなに悔しさを感じなかったんです。自分のピッチングが悪かったという感覚もなかったし(9試合3勝2敗、防御率1.75)、秋にはまた優勝しましたし......正直、そんな感じなんです。

【150キロを投げたい】

 あの頃の僕はよくも悪くも淡々としていて、自分がやるべきことをやろうと強く意識していました。だから僕のピッチングがよければ、ちゃんと仕事はしたんだからそれでいいと考えていたんです。

ふつうに考えたらそれって自分勝手な考え方だと思われるんでしょうね。ただ僕は、それは自分にとってはいいことだったと、今でも思います。何かを背負うということをせず、淡々と自分のすべきことに集中する感じでずっと行ければよかったのかもしれません。

 たぶん2年の秋はそういう感覚を持てていたんでしょう。心身ともラクに投げられていた記憶があります。実際、イニング数も伸びていましたし(7回を投げきった試合が9試合中6試合)、法政と明治の試合も土曜に僕が勝って、日曜を落として月曜にまた僕が勝って、というのが続いたんじゃなかったかな(法明と戦った10日間で、法政の1、3,4回戦、明治の1、3回戦の5試合に先発、斎藤はいずれも勝って早稲田に勝ち点をもたらしている)。

 あの時の僕は大学へ入学してから思い描いてきたエース像、そのままでした。土曜に勝って、日曜負けても月曜に勝つという......法政の3、4回戦は2試合続けて9回をゼロに抑えましたし、早慶戦も土曜と月曜に勝ちました。

 ところが僕は、あの2年秋のピッチングを自分で認めてあげられなかったんです。バランスという意味では変化球でカウントをとれて三振もとれて、真っすぐも145キロは出ていたはずです。だったら「それでいいじゃん」と、そのまま順調にステップアップしていけたらよかったのに、僕はそういう自分に不満を持ってしまっていました。

 スピードをもっともっと上げたいと考えていたんです。

焦りもあったのかもしれません......1年ですぐに結果が出て、2年でも投げれば勝つという感じになって、これはもっと天井を高く設定しておかなければその先へ行けないんじゃないかという不安を抱いていました。

 どんなに高いレベルをイメージしても、環境にあわせてラクをしてしまうところが人間にはあると思うんです。いわゆる天井理論ですよね。籠に入れられてしまったら籠の天井までしか飛べなくなる。もっと天井の高いところに行けば、それなりに高く飛べる。大学時代の僕はプロのレベルをイメージできていないどころか、むしろ膨らませすぎていました。

 その時期、高校からプロに進んだマー君(田中将大)と比較されることが多くて、僕は「バッターに打たれないボールを投げていればそれでいい」というようなことを言っていたと思います。でもプロと大学では相手バッターのレベルも違いますし、そこは未知数ですよね。それでもマー君がプロで2ケタ勝ってるとなれば、斎藤はプロで活躍できるのか、できないのかということをあちこちで言われてしまう。そんな不安を解消する一番わかりやすい目標が、一度も投げたことのなかった150キロという数字だったんです。

 今思えば、2年秋のピッチングスタイルはプロで十分、勝負できるものだったような気がします。でもそうは考えられなかった。3年生になったら150キロを投げたい......いや、150キロを投げなければ先はないと思い込んでいました。

【身体も考え方も大人にならなきゃ】

 大学2年というのは20歳になる学年です。身体も子どもから大人に変わっていく時期だったんでしょう。たぶん大人の身体になって、柔らかさを失って硬くなっていたところもあったと思います。

 当時の僕はパーンと開脚できて、そのまま上体を前にベタッと倒せれば、それで身体が柔らかいと安心してしまって、そういう柔軟運動ばかりを繰り返していました。でもそうじゃなかった......もっと胸郭の周りとか胸椎の周り、肩甲骨の周りを柔らかくする努力をしていたらよかったと今となっては思います。

 その反面、2年の秋から3年の春にかけてはベンチプレスばっかりをしていました。本来、やるべきことと真逆のことばかりをしていたんです。もちろんベンチプレスをしてもいいんですが、同時にどこを柔らかくしておくべきなのか......当時はそういう知識はちょっと勉強したくらいではなかなか得られませんでしたし、身体のことをもっと理解した上で努力しておけばよかったという悔いはあります。

 20歳になるというのは、僕にとっては身体だけでなく、考え方も大人にならなきゃという感覚がありました。應武(篤良)監督とお酒も一緒に呑みましたし......僕は覚えていないんですが、監督から「ハンカチ王子を卒業しろ」と言われていたらしいですね(笑)。たぶん監督としては、ここで一皮むけるんだぞ、と檄を飛ばす狙いがあったんじゃないかと思います。3年になって、ここからプロに行くまでの過程は、もう名前で勝負するんじゃなくて、野球選手として実力で勝負するんだぞ、という思いが監督にもあったんでしょうね。

 もちろん僕はずっとそう思っていましたし、だからもっとスピードも上げたい、変化球も増やしたい、コントロールもよくしたい、スタミナも上げたいし、もっともっと自分のなかでの幅を広げないといけないと思っていました。そこに20歳という年齢がかけ合わさって、現状で満足してはいけないという焦りのようなものに追い立てられていた。大学に来てできることがたくさんあるはずなのに、全然できてないと常に思っていました。

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 何かをやらなければという焦りが、もっとスピードを上げようという目標につながり、斎藤は誰の目にもわかりやすい"150キロ"という数字を掲げた。しかしスピードだけにフォーカスしたトレーニングが災いし、股関節を痛めてしまう。これがのちの野球人生にとてつもない悪影響を及ぼすことになってしまった。

(次回へ続く)